東ロシア宣教レポート 1992年の夏に私はノエルモーリス師、ガルサ牧師たちと共に東ロシア短期宣教旅行に加わる事ができた。当時まだ救われた何年も経っていない私にとってそれはとても大きな成長のステップとなりました。
このときのロシアはペレストロイカ(解放政策)が始まったばかりで、(国民の精神的支えの為に益と考えていたため)宣教師を歓迎しており、教会の迫害も現在ほどはありませんでした。人々は新しい事に対して飢え乾いており。異端が成長する温床が育ちつつありましたが、ある意味において。福音を伝える大きなチャンスでした。
出発は小樽から援助物資や数台の中古車と共に貨物積載を兼ねたロシアの船ででサハリンへ向かった。カーフェリーボートでもないこの船にどうやって車を積みこむのかわからなかったが積みこみが始まるとすぐに理解できた。なんとクレーンで無理やり甲板に積み込むのである、積載量を稼ぐために手すりに3分の1ほどはみ出すように積んで行くのである。海が荒れたときには車が海に落ちる事も有るそうである。
小樽港で積み込まれる中古車
ロシア人の家庭に私達はホームステイしていました。人々は貧しい生活ですが、長い間抑圧されていた教会にとって、今までに無いほどに解放を経験しており、クリスチャンは将来に対する希望で満ちていました。実際教会はうなぎ上りに成長していました。
サハリンの家族と牧師(右) この宣教旅行にあたって、ロシア語のオリジナルトラクトを教会で作ることになった。ロシア語のタイプライターが無かったので手書きで作られたトラクトを1000枚ほど準備した。日本の感覚ではみすぼらしいトラクトであったが、これを通じて何百人もの人がキリストを救い主として受け入れました。このトラクトには単純に、(マタイ11章28−30節)と福音すなわち十字架の死と復活について、そしてイエス様を受け入れる祈りが書いてあった。私はロシア語をほとんど知らないがこのトラクトを用いると効果的に福音を分かち合い、救いへ導く事ができた。すなわち、「読んでください」「信じますか」「声に出して祈ってください」この3つのロシア語をしゃべれれば誰でも簡単の伝道できるのである。
のちにこのトラクトは教会のビジョンとなり、現在13カ国語と四つの教会の教会案内入りのトラクトとして印刷されて用いられています。
たしかに私の伝道スタイルはこの宣教旅行を通じて変えられました。それまでは論理的に説得していたのが、それ以後は、単純に福音を語り、証しをして招きをするようになりました。そして多くの日本人が主を受け入れ告白するのを見てます。
病院において集会をする機会が与えられ、メッセージの後、癒しの為の祈りの時を持ちました。そこでも多くの人がいやされました。
教会や聖書学校で分かち合うだけではなく私達は積極的に通りや病院に出て行って福音をのべつたえました。ロシア人のクリスチャンはいたるところですべての機会を通じて福音を語り、人々がそれを受け入れていました。まだ外国人は珍しく、多くの人たちにとって言い意味において注目を受け、トラクトを配ると人々が群がってくる事もしばしばでした。
サハリンのマーケット広場にて ある女性は病室を回っていた私達を遠目に見ていました。その女性は体が横に三日月のようにまがっていました。ガルサ牧師がその女性に分かち合うと、彼女は言いました「私はあなたが言っている事を信じる事はできるが、私を傷つけた人を赦すことはできない」と。 ガルサ牧師はさらに分かち合い、こういいました。「赦しとは感情的な事ではなく決心です。あなたが決心するときに主がたすけます」 最後に女性は赦す決心をして赦しを告白しました。 彼女が告白し終えた瞬間この女性は突然叫び出しました。そして気がついたら弓のように曲がっていた彼女の体がまっすぐに戻っていました。彼女の病は人を赦せない思いから来ていたのでした。
ある男性は癒しを求めて招きに応じて前に出てきて祈りを受けました。杖なしでは全く歩けない状態でしたが、キリストを受け入れ、過去ののろいを立ち切り、癒しの祈りを受けた後に、杖を捨てて自力で立ちあがり歩けるようになりました。その後、彼は、癒されたことを病院の中でふれ回って歩いたので、病院の中の多くの人が癒しを求め、夜10時まで病院でミニストリーが続いた。
ロシア人の多くの霊的な問題の原因は家族関係から来る心の傷、魔術との関わりによるのろいなどにあり、それが慢性的な病の原因となっている場合がしばしば見うけられました。癒された男性 これらのほかにも数多くの出来事があり、私にとって初めてのこの海外宣教の経験はクリスチャン生活の大きな節目となりました。それだけではなく個人伝道やトラクトに対してビジョンを受け、私自身の働きの基礎を築き上げました。
1992年夏 岡田好弘