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杉原千畝

杉原千畝は1900年生まれの日本の外交官で1940年にリトアニアのカウナスで領事館に就任中にユダヤ人難民の為にビザを発行し、およそ6000人の命を救いました。

当時のヨーロッパはナチスによる圧迫が強まっており、それと同時にアメリカを含めて他のヨーロッパ諸国はユダヤ人難民に対して扉を閉ざしておりました。

1939年にドイツがポーランドに侵攻するとポーランド在住のユダヤ人にとって逃げ道はリトアニア以外ありませんでした。そのリトアニアもソ連の脅威があり、彼らにはその後の有効な避難経路はありませんでした。

考えうる脱出方法はソ連邦を東に横断して逃げる方法ですがソ連がビザを発行するはずはありません。ただ、日本政府が発行した「日本を通過して他の国に向かう為のビザ」を所持しているなら、日本に入国が可能なだけでなくその途中にあるソ連邦を通過することも可能でした。

この唯一残された方法を求めて多くの難民が日本の領事館に殺到したのです。

日本を通過したものたちを含めて2万人の難民が上海の日本の租界に逃れました。そこが当時世界で唯一ユダヤ人に対して扉を開いた場所だったからです。

 


杉原は当時の日本政府の方針であった「人種差別をしない」という方針と、人道的見地から、数週間に渡り寸暇を惜しいんでビザを発行しユダヤ人が大多数を占める難民を助けました。その発行したビザの数は少なくとも2000枚以上であり、また、ひと家族に一枚あればよいので、合計6000人を救ったといわれています。

 


誤解を解く

さて、ここで、杉原ビザにまつわる誤解を解いておきたいと思います。

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(1)日本政府に逆らってビザを発給したので処罰としてリトアニアを離れさせられたという誤解。 

彼はリトアニアのカウナスを離れましたが、もともとその領事館はソ連の圧力で閉鎖されることになっていました。カウナスを離れた後、彼はベルリン経由でチェコスロヴァキアのプラハ総領事館に総領事代理として勤務しました。

それどころか、彼は1944年に三等書記官として在ルーマニア公使館に勤務していたときに勲五等瑞宝章を授与されています。したがって、彼が戦後外務省を首になったのはこのビザ発給の件が原因ではありません。

終戦後外務省の働きは大幅に縮小され、外交官の三分の一が退職させられました。ノンキャリア組(東大卒ではない)の彼が退職さえられたことは不思議ではありません。

また、2019年10月22日の朝日新聞によりますと、戦後彼が退職した後、「参院資料課で主事として勤務したことが新たに判明した」との報道されております。


 

(2)杉原は正義の人であるが日本政府はユダヤ人に冷たかったという誤解。

これも、大きな誤解です。確かに日本政府は杉原が難民に対してビザの発給の許可を求めたときに難色をしめしましたが、それは常識に基づいての回答です。実際には杉原がビザを発行するのを容認していました。

当たり前の話ですがビザというものはその国に入国をするための最低条件であって入国を保障するものではありません。

杉原ビザを持ち、ソ連極東部のウラジオストックにたどり着いた避難民がその後も脱出を続けれたのは、ウラジオストック領事館の根井三郎の便宜があったからです。

根井三郎は、有効性が疑われている杉原ビザに対しての信用を与え、さらに紛失者にも再発行しました。 また、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給し、難民の救済にあたりました。

ウラジオストックを発った船は日本の鶴賀港につきましたが、一定のお金を持っていない人は上陸許可が下りないはずでしたが、そこでも、別の役人によって便宜がはかられました。 

また、ユダヤ人が日本に滞在できる期間は10日間だけだったのですが、外務大臣の松岡洋右の便宜で30日に延長されました。 この外務大臣がそう判断した事実は大きな意味を持っております。なぜならこのユダヤ人の救済は、日本政府のお墨付きであったことを意味するからです。