5) 先の勝利がつぎの敗北につながる

「現在の迫害者は先のリバイバルである」

このような言葉を聴いたことがあるでしょうか?確かにキリスト教の歴史を見るならそのパターンが時折見られます。

今日保守的で聖霊の働きを認めないような教会であっても、かっては「リバイバルの中で生じた教派」というのはとく聞く話です。

こういった話を聞いて、ジョン・ウェスレーの働きによって始められた、メソジストについて思い出す人がいるかもしれませんが、それは何もメソジストだけではありません。

およそ、現在あるほとんどすべての教派は聖霊の大きな働きによって生まれたのです。

これについては以前書いた「どうしてキリスト教会にはたくさんの教派があるか」という教えでも触れていますが、キリスト教会における新しい動き、新しい教派の誕生というのは聖霊の働きによって生まれるのです。

にもかかわらず、その神に用いられた特別なグループが次の時代には新しい髪の働きに反対してしまうというのはどういうわけでしょうか?


しかし、それは近代の教会史だけでなくイエスの時代においてもそうでした。

福音書で悪人の代名詞のようなパリサイ人ですら、エズラの時代にトーラーに立ち返るリバイバルを経験し、聖書の言葉の一言一句にこだわりみことばを守り続けた神の器だったのです。

そして、このような失敗は、現在の聖霊に満たされたと思われている教会であったとしても起こしてしまう過ちです。


また、神がある働きを強調するときに、多少の極端は許容されます。

たとえば、トロントブレッシングにおいては「そのマニフェステーションが少しでも神からのものであるかもしれないならそれを妨げてはならない」と教えていました。

それは確かに極端な教えです。それにもかかわらず神はトロントのリニュアルムーブメントを祝福されていました。神がそうされたからです。しかしながら、だからといってそこで語られた教えのすべてが正しいわけではありません。


ですから、たとえ神に用いられたり勝利を体験したとしても、常に遜って新しい神の導きと御業を妨げないようにしなければなりません。

たとえ、神の導きや祝福によって始めたことであっても、次の季節においては、手放さねばならないこともありえるのです。

黙示録4章10節〜11節」にあるように、御座の前で長老たちはひれ伏し冠を投げ出しました。それは過去の栄光や勝利の全てを主にお返しし新たな気持ちで神を礼拝することを意味しています。


デボーションノート

1)あなたが投げ捨て主にお返しすべき冠はなんでしょうか?

2)自分がいましていることのどのような点がつまずきを与える可能性があるかを考えましょう。