7) 神はわれわれの心を試す

私たちは神に語られるのを切望しています。そしてまた、神は私たちに語りたいのです。しかし時にはその言葉は、私たちを導くというより、私たちの心を知るための場合もあるのです。

出エジプト記32章7節〜14節において、イスラエルの民はモーセの帰りが遅いのを見て、待ちきれず神の御心に反して金の子牛を作りました。

それを見た神は、イスラエルの民を滅ぼしてしまうといわれました。

その際、神はイスラエルの滅びを宣言すると同時にモーセに不可解なことをおおせられました。

出エジプト記32章10節 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

これを聞いたときにモーセはどう思ったのでしょうか?

もし、彼が自己中心的な人間であったら、もしかしたら、「えっ?私を大いなる国民にしてくださるのですか!?どうぞ民を滅ぼしてください。」ってことになっていたかもしれません。

神は確かに私たちに語られます。しかしそれは、私たちの心を試すためかもしれません。

ですから、たとえ語られた言葉と自分の願いが一致しているからといって何の吟味もなく受け入れてよいわけではありません。


では、そのような場合、どのようにして見分けるのでしょうか?

それは簡単です。当然神の御言葉に照らしあわしてみればよいのです。自分の同胞が滅ぼされて自分が高く揚げられるなんて、他の聖書の箇所と整合がとれませんですからね。

また、神が滅びを宣言されるときに、それを御心だからといってただ受け入れればよいわけではありません。「歴史はあらかじめ定まっていない」という記事の中にあるように、滅びの警告は、私たちの行き方を変えさせ、またとりなし祈るためのものだからです。

「今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。」という言葉は、「さあ、私を止めてみよ。とりなしの声を上げて祈れ」という意味なのです。


1) 神によって与えられている約束がどのようなものか吟味してみましょう。

3) 敵に隙を与えてしまう自分の弱さは何でしょうか?

4) 自分自身を主にささげる祈りをしていきましょう。