3月19日(月)
2日目:奇跡の癒し
神は癒しを行われます。イエスの命令は世の人に対して、単なる良い人であったり、福音を伝えることだけでありません。マタいの福音書に 10章8節にはっきりと「病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と書いています。
なぜならば、イエスはすでにわれらの全ての病を担われ(イザヤ53章3節)勝利を取られて(マタイ28章18節)その勝利をわれわれに与えてくださった(ヨハネ20章21節)からです。
奇跡の癒しは主の主権によってなされるものです。ですから、基本的にどのようにすればよいというマニュアルはありません。どのような方法でも主は御業を行うことが出来ます。
イエスがつばと土を混ぜて作った泥で盲人を癒したり、つばをつけて耳しいを癒されたり(マルコ7:33)したのは、そのとおりにすればよいというマニュアルを作るためというよりも、神はどのような方法でも、癒すことが出来ることを示すためではないでしょうか。
まああえて方法があると言うならその方法とは「病人に手を置いて祈る」ということでしょう。主が「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マタイ16:18)と書いているのであるなら、それが可能である限り実行するべきです。
「すでに与えられているものは私たちのもの。」(申命記29:29)と聖書には書いているのですから知ってる限りの最善の方法を行いましょう。
つまり、ただ、電話口で祈ったり、遠くで隠れて祈っているより、実際にその人のところに出向いて手を置いて祈ったほうが良いのです。
この記事を書いている間にも、メキシコで働いているアメリカ人宣教師の祈りのリクエストがあり、その祈りの答えを見ています。
肝臓が機能しておらず、今晩もつかもたないかという娘が危篤だという知らせを受けて今からアメリカに向かうという連絡を受けました。そして、次に受け取ったメールは、回復の兆しを見せているということであり、その後に受け取ったメールは2週間後に退院だということです。
どうして、癒されたのでしょうか?確かなことは現地に赴いて手を置いて祈ったということです。
今日はインスタントな時代で祈りの答えもすぐにいただこうとします。しかし、時には時間がかかることも知るべきです。
時間をかけるというのは、ニ、三こと祈って終わりにするのではなく、長い時間祈ることを意味します、何度にも分けて祈ることを意味しますし。
私自身は、「別に長時間祈らなくても、主の御力によっていやしは起こる」という事を信じていますがバランスをとるためにこの事を言っておきます。
(マルコ8章23節〜25節)イエスですら祈った後に症状を尋ねて、完全に癒されるまで祈ったのですから、私たちにとってはなおさらでしょう。
私自身、自慢するほど多くの癒しを体験しているわけではありませんが、一番癒しの機会を見ている場所は自分の家庭です。神は一家の頭に対して、特別な好意を与えておられます。
父親という存在に力があるのでしたら、その人が信仰深いかどうかはあまり関係ないかもしれません。たとえ弱い信仰の夫であっても子どものために祈るときに奇跡を見ることでしょう。
1)癒しに関する聖書の言葉を読み、思い巡らしましょう。
2)癒しを求めている人のために積極的に手を置いて祈りましょう。