3) 聖霊の注ぎは熱心に求めるものに与えられる

ユダヤ暦によるペンテコステの日

今年は14日〜15日にかけてが本当の(※)五旬節の日です。

日本でおなじみのメシアニックジューであるアルエル・ブルメンソール師の属するリバイブイスラエルミニストリーを主宰するアシェル・イントレー ター師は「このページ」にあるように一致して12時間の連鎖断食と徹夜の祈りをするように呼びかけています。


主の約束を待ち望んで弟子達は熱心に祈り続けました。

初代教会に習って私達も五旬節のカレンダーに合わせて連鎖断食と祈りをしていますが、彼らとの違いは、私達は五旬節に御霊が注がれたのを知っていますが、彼らはいつまでどれぐらい祈ればよいのか知らずに祈っていたことです。

情熱を失うことなくそのように祈り続けたこと考えるとそれはすさまじいものであったことがわかります。


私達は何かを求めて祈るときによく(ルカ11章9節)の、「求めるなら与えられる」という御言葉を引用します。確かにそれは主からの約束ですが、その御言葉は第一義には「御霊が与えられること」についてのことなのです。

ですから、聖霊のバプテスマは熱心に求めるべきものなのです。


私が最初にお世話になった教会はペンテコステ系の教会でした。ですから、聖霊を求める(聖霊のバプテスマ、ひいては異言を語ること)事の情熱はすさまじいものがありました。

水の洗礼を受けた後に、聖霊のバプテスマを求めて祈る事を習慣としているようで、その為に、どのようにして聖霊を受けるのかという教えがあります。また、その為の書物を貸してくださいます。

ところがその本は結構古い本でもしかしたら戦前の本もあったように思います。今のように異言を語ることが特殊で、すぐに受けれるようなものではなく、また異言を語ることがまだまだ異端視されていたような時代の本でした。

ですから、今から思うと、異言を語ることが非常にハードルが高い出来事のように書いてあり、そう、あたかも、それさせあれば他には何もいらないほどの情熱によって求めるべきものでした。

でも、そのような学びをした上で聖霊のバプテスマを求めたからか、かなり強烈に与えられたのを覚えています。洗礼を受けた本部の教会から家まで電車で2時間ぐらいかかるのですが、電車に乗っている間ずっと異言が止まらなかったのです。


今日、聖霊のバプテスマを受けるのがそれほど難しいものではないことを私達は知っていますが、簡単に与えられたものには値打ちがないと思ってしまうことは世の常です。

いずれにしても、聖霊の体験は一度すればよいというものではありません。体験だけが先行してしまう信仰生活はバランスを欠いていますが、だからといって主に触れられる体験が大切であることにはかわりがありません。


祈り

1) 異言で祈れる人は、さらに大きな声で声に出して祈りましょう。

2) まだ、祈れない人は、それを求めましょう。すでに聖霊のバプテスマを受けている人に祈っていただきましょう。

3) 神による満たしというものは限度がありません。 (ヨハネ3:34 )今体験しているレベルで満足しないでさらに熱心に求めましょう。