5) 聖霊の注ぎはわれわれをひとつにするため


五旬節を迎えるために、弟子達は断食して祈っていたと前回書きましたが、もうひとつ大切な点があります。

それは彼らが心をひとつにしていたという点です。(使徒1:14)

そう、聖霊の力を求めるにあたって重要なのがこの「ひとつとなること」です。

正確に言うなら、聖霊の注ぎを受け取るのに必ずしも一致が無ければならないわけではありません。しかし、一致が無ければ、どのような祝福を受けたとしても、それは途中でつぶれてしまうことでしょう。


インドネシアのニコ師はインドネシアでもっとも影響力のある教会のひとつですが、彼らの成長の秘訣はこれでした。今から十数年前、すでに教会は大きくなっていたのですが、その時に、神は彼に語りました。

「へりくだり、自分の傲慢さを悔い改めて、他の教会の牧師たちに謝罪をして回るように。」主は語られたのです。彼がそれを行った後、彼の教会は枝教会を合わせて数十何人規模に成長したのです。


聖霊のバプテスマは一致をもたらす預言的な出来事です。

異言は通常言語としては理解できないものです。けれども、それが一致をもたらすというのは、興味深いです。なぜなら、それは、かってバベルの塔において一致して悪巧みを働く人類を散らす為に神が用いた手段は言葉の混乱だったからです。(創世記11:3−9


一致はあらゆる意味において、聖霊の注ぎが継続されるために重要な事柄です。

教会の一致の為にへりくだることは大切ですが、それによって変えてはならない一線を越えて教理の点で妥協してはなりません。そのような人間的な小細工によってではなく、聖霊の啓示によって納得していく必要があるのです。

人間的な方法で、互いを尊重して一致した場合どのようなデメリットがあるのでしょうか。それは、これまで持っていた神学や聖書理解については一致できても、今このとき、そして将来神が与える新しい啓示や聖書理解については受け入れれなくなってしまうことです。

たとえば、五役者(特に使徒、預言者)についての理解は、既存の教会観に使徒と預言者を付け加えればそれですむ問題ではありません。

もし、聖霊の働きなしに、現状で理解している神学の違いを何とか妥協して一致しようとするなら、それは神が与える新しい啓示に対して扉を閉ざすことになるのです。


祈りのテーマ

1) 他の教会の祝福の為に祈りましょう。

2) へりくだり、御霊に示され必要であると感じるなら主にある兄弟姉妹と和解しましょう。

3)