6) 聖霊の注ぎは癒しをもたらす


昔の人々は傷口に油を塗って治療いたしました。(ルカ10:30-34)聖霊はこの癒しをもたらす油が象徴しております。

聖霊が下るときに力を受ける(使徒1:8)と主は語られました。これは宣教の為の力ですが、宣教の力とはただ語る能力だけでなく、しるしとしての癒しをもたらす力でもあります。

なぜなら、主は弟子達を遣わすときに「 病人を直し、死人を生き返らせなさい」(マタイ10:1&8)と語られました。

確かにイエスの元に行った人はみな癒された(マルコ6:56 )のです。

イエスが癒しを行ったのは彼が神であったからではありません。彼はご自身を人として制限された立場に置かれ地上に来られました。彼が癒しを行ったのは聖霊の力によるのです。

そうであるなら、私達も聖霊の力によって癒しを行うことができます。いや、聖書にはイエスよりもさらに大きなわざを行う(ヨハネ14:12)と書いているのです。


神はどのようにして癒しを行われるのか

それにはさまざまな方法があるので、何か限定するつもりはありませんが、ここでひとつ強調したいことは、私達の祈りを通じて、そしてさらに言うなら私達が手を置いて祈ることによるのです。

マルコ16章17節に「、病人に手を置けば病人はいやされます。」とかいているのは逆に言うなら、手を置かねば癒されないことも大いにあるということです。

なぜなら、神は人間をを仲介者として定め、私達を通じて働くことを決められたからです。

※ 関連MP3音声メッセージ:「(1)とりなしに関する基本的な世界観


私達がすばらしいから癒しを行えるわけではありません。私達は聖霊の力を運ぶ器であるが故に、その力が与えられているのです。ですから、自分にはできないとか、自分はふさわしくないといってはいけません。

もし、「自分はふさわしくない」と言うなら、それは自分のふさわしさによって神が働くと信じているという意味であり、そういう人は、「自分が用いられるようになったら、自分の力によって癒しが起こっている。」と勘違いしてしまうことになってしまいます。

ですから、「ふさわしくない」という一見謙遜に見える態度は、裏を返せば高慢の根があるのです。それはまさにサウロに起こったことです。彼は王に任命されるときに「荷物の陰に隠れていました。」その態度はへりくだって見えますが、そうではありませんでした。それはコンプレックスによるものであり、また、高慢の根でもあったのです。

それを証明するかのように、彼が用いられたときに「記念碑を建てる」(1サムエル15:12)といった態度に出てしまい、また、ダビデが活躍するにしたがってダビデを圧迫したのです。


祈りとデボーション

1) 神は人間の祈りや愛、そして行動を通じて働くということを認識できるように神に求めましょう。

2) 「自分はふさわしくない」と考えていたなら、神に用いられる器となる為に、態度を悔い改めましょう。

3) 病の癒しの為に積極的に祈りましょう。