■1日目

「断食への召し」 花嫁は花婿に近づくために断食をする


我々はみな断食に召されています。
ある人は、神様にそうは示されてはいないと考えるかもしれません。
断食とは、神に召された人(呼ばれた人)だけがするものではありません。
聖書のある部分を見るなら、呼ばれていないからこそ断食をしたことがわかります。

断食について分かち合う場合、よく引用される聖書の個所が何か所かありますが、エステル記もまたその一つでしょう。

エステル記を理解する為にはそれぞれの登場人物が何を象徴しているのかを知る必要があります。それは以下の通りです。
エステル=神の民
王様=神

エステルはどうして断食をしたのでしょうか?
もちろん、イスラエルの民に迫っている絶滅の危機を打破するための突破口の為です。
その結果、ご存じのようにユダヤ人の危機を救うのみならず、ハマンが裁かれモルデカイの地位が高められるなどといった予想もしなかった神の御業が現されたのは事実です。

しかし、エステルが断食をした直接的な理由は、呼ばれていないにもかかわらず王のもとに行くためだったのです。

なんということでしょうか。

主の前に出るというのは、時にはそれほどの必死さを要求される出来事なのです。

エステルは召されていないけれど、自分の民族に差しせまった危機を見て、王に近づくことを選びました。

「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル 4章 15節 〜16節の抜粋)

われわれは神に召されていなくても、いや、そうだからこそ断食をするのです。


それは次の御言葉も、それについての確認を与えます。

マタイ9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。

この御言葉を文字通り理解するなら、断食とは
神が近くにいないから断食をするのではなく、神が遠く、取り去られたように感じるからこそ断食をするのです。

このことについては、3日目の「主を慕い求める断食」でさらに深く見ていきましょう。


断食の苦しみを体験することの代償として神が祈りを聞かれるわけではありません。
主のみ前にはすべての解決があります。
主が立ち上がるなら、問題は問題ではないのです。

ただ、主の元に行くためには、代価が必要です。あるいは、主の元に行けても、その答えを得るのに時間がかかる場合があります。

(ダニエル10:2 そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。
 10:3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。

「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれている(ダニエル10章10節〜14節の抜粋)

ダニエル書10章でダニエルは主を求めて断食をしておりました。主からの答えをいただくのに3週間かかりましたが、ダニエルと主の間に問題があったわけではありません。「ペルシャの君」と呼ばれる主権を持つ悪霊によって妨げられていたのです。

神のみ前、天の御国には神の御心があふれすべての解決がそこにあります。しかし、答えが届くのに妨げがあるために時間がかかるのです。


これらのことは断食の意義を私たちに教えます。

我々は、王に近づくために、また、祈りの答えが届けられるのを妨げられるのを弱めるためにも断食をするのです。


デボーションの課題

1)我々はキリストの花嫁であるという身分を確認しましょう。

2)何が何でも主に近づくという必死な思いを持ち、神に心を注ぎだしましょう。