■4日目 断食とはキリストのいのち命を体験するとき
断食とは、何らかの方法で食物を絶つ方法です。
水だけでする断食もあれば、ある程度のカロリーをとりながらする断食があります。
また、朝食だけとか夕食のみ食べるといった断食もあります。
ちなみにイスラム教がしている断食は太陽が出ている間だけ断食をします。
いずれにしても、それらを行うことの大きな目的のひとつは自分の霊を生き生きとした状態にするためです。
(1)死ぬときに生きる」というのは聖書の原則です。
(ローマ8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
われわれは、キリストにある命を体験しなければなりません。
それにはさまざまな方法があるでしょうが、断食はその中の重要なひとつなのです。
(2)霊的な鍛錬 (1テモテ4章7節〜8節)にあるように我々は霊的な鍛錬、信仰の鍛錬を必要としています。
霊的な鍛錬を肉体の鍛錬と比較して聖書が記しているのは興味深いことです。
筋力トレーニングと霊的鍛錬には共通性があります。
ひとつは、どちらも一日にして完成させることはできず、継続して行う必要があるということです。そして、継続していなければ、やがて筋肉がしぼんでしまうように信仰もしぼんでしまうということです。
もうひとつは、どちらも壊されることによって成長するということです。
筋肉は風船を膨らませるように徐々に少しづつ増えるわけではありません。
筋力トレーニングをするときに、いったん筋肉が破壊されます。そして破壊された部分が再生させるときに以前より太く成長していくのです。
信仰の鍛錬も同様です。
信仰もまた壊されることによって成長します。
安穏として状態では信仰の成長はありません。エステルがモルデカイによって目覚めさせられたように、我々は聖霊によって目覚めさせられなければなりません。
失敗したりするときにも実は信仰を成長させているのです。
また、しばしば見られる信仰のテストとは「信じていたことと違うことが起こってしまうことです。」
そして、断食によって、当然あるべき欲求が否定されるときに信仰が成長していくのです。
デボーションのテーマ
1)肉の行いを殺しましょう。自分にとって妨げとなっているものが何かを主にたずね求めましょう。
2)人生における試練や、信じていたことと反対のことが時には起こるのを主が容認されているのはそれは私たちの成長のためです。
つぶやかず、疑わずに行いましょう(ピリピ2:14)