■ 7日目 永続する神の栄光と臨在

モーセは神と過ごし神の栄光が彼に染み込んでおりました。
それゆえ、彼の顔の肌が光を放つという驚くべき現象(出エジプト34:29) が起こりました。

出エジプト34:29-35)

どうしてモーセは顔に覆いを掛けたのでしょうか?
この光はまぶしかったかもしれませんが、それでも目がつぶれるほどの輝きではなかったと思います。にもかかわらず、覆いを掛けることになったのは神の栄光にイスラエルの民が耐えれなかったからです。
民は、神の栄光がそこのあるにもかかわらずそれを見ることができなかったのです。

これは、覆いがかけられた最初の理由です。
しかし、後になると、その理由が変わってしまったようです。

2コリント3章13節に「消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けた。」とあります。(2コリ3:12-14)

神の栄光が消え去ろうとしているのにモーセはそれを民に悟られたくはありませんでした。
モーセが顔に覆いを掛けて民の前に出るときに、民はいつも「モーセの顔は光を放っている」と思ったことでしょう。しかし実際には、その光は徐々に失われおり、もしかしたら、その後しばらくの間、まったく光っていなかったにもかかわらず覆いをしていたのかもしれません。

栄光の輝きがもうそこにないのに、光があるかのように覆い隠す行動、それは宗教的行動です。

しかし、そのようなことはリバイバルの歴史の中でかっておこってきたことです。

昔ある祈り会で、みんなが聖霊に満たされて、ほえるように大声を上げました。それはまさに聖霊の力でした。数十年経った後その祈り会は、今でもほえるように大声を上げて祈っています。しかしそれはもはや聖霊に突き動かされてではなく、人間的な力で祈っています。


かっての栄光がなくなったからといって、それは神が離れてしまったとか、見捨てられたという意味ではありません。私たちがその場所にとどまってしまうのではなく、次の段階に導きたいと願っているのです。その為に一時的に栄光が失われた状態にされたり、停滞感を与えることは良くあることです。

またそれは我々に「考える」あるいは「反省する」機会を与えるときでもあります。

順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。(伝7:14 )と書かれている通りです。


ですから、もし、この光が消えてしまうとするなら、それは主に問題があるのではなく、我々に問題があるのです。

それは(2コリント3:15)にあるように我々の心に覆いがかかっているということです。

なんということでしょうか、モーセの光が民に届かなかったのは、モーセがかけた覆いだけでなく、イスラエルの民一人ひとりの上にも掛けられていたのです。


永続し続ける神の栄光を体験する秘訣は「続く」「続ける」ことではなくリニュアル(更新)されることなのです。
そうするならば(2コリント3:18)にあるように、「栄光から栄光へと主と同じ形に変えられる」のです。


デボーション

1)かって体験した成功や栄光の中で輝きを失っているものがあるかどうかを考え、またそれを主にたずね求めましょう。

2)何かを宗教的に繰り返して行っているものがないかどうか主に求めましょう。

3)栄光から栄光に変えられるように主に心を向けましょう。それはまた覆いが取り除けられるということです。(2コリント3:17