第3日目:楽しんで待ち望む
私たちが、楽しむこと、喜ぶことは主の御心です。そして、それはまた私たちの安全の為でもあります。(ピリピ3章1節)
喜びについての記事をいくらでも書くことは出来ますが、実際問題、喜ぶことが出来ない理由は喜びが御心であることを知らないからではなく、妨げがあるからです。
その妨げにはさまざまな理由がありますが、今回はひとつのテーマに絞ってみたいと思います。
楽しんで待ち望むこのとの反対の態度はいったい何か?
いろいろな答えがあるでしょうが、今回は「傍観」「興味本位」の姿勢を取り上げたいと思います。
ヨナはニネベの滅びを預言し、民に改心するように呼びかけましたが、その本心はその街が滅んでほしかったようです。それで、彼は、ことの成り行きを見ようとしていましたが、主と同じ心ではなく、傍観者的態度でした。
しかし、私たちはそのような態度であってはなりません。
彼の語った言葉(ヨナ4章2節) の意味を一言で言うなら「どうせ私は知っていましたよ。御心ですからね。」という態度でした。
その態度は、謀反を起こしたソロモンの兄弟であるアドニアの態度を思い起こさせます。(第1列王記2章15節)アドニアは主の御心を知っていた。そしてその通りになったと言いながら、心の内で反抗していたのです。
それは彼の心に「高慢」な心があったからです。喜こび楽しんで待ち望むために、もう既に知っているというような心の悪い態度を取り除きましょう。
デボーションのポイント
喜びを奪っている要素が何であるかを吟味しましょう。
それには原因となる出来事があるでしょうが、それだけではなくそれが霊的な問題であると言うことに気がつくために、聖霊の光に照らし出してみましょう。