4日目6/15(水):荒野で何が形成されるのか


荒野で新しい世代が立てあげられた。

彼らはエジプトの生活を知らず、奴隷のメンタリティーを持っていません。
荒野の中の繰り返しのような生活の中にあっても次の世代が立て上げられていったのです。 

ヨシュアの世代。
若者のことをヨシュアの世代と呼ぶことがありますが、実際には、エジプトを出てかあ生まれた世代ですので、40歳ぐらいまではヨシュアの世代なのです。

何よりも大切なことは、年齢云々ではなく、奴隷根性を持っていないものとなることです。


荒野で人格が試された

(申命記8:1−5)によると、主がイスラエルの民を荒野を通らせた理由は、彼らを訓練するためであったと書かれています。

どのような人であっても、主に仕えるためには、へりくだり(申命記8:17-18)や忍耐が試されるのです。

ローマ5:1−5


幸せな人生の土台

(申命記8:14-16)には荒野を通らされた理由は「彼らを幸せにするためである」と聖書は語っています。

高ぶることなく、今もっているもので満足すること、それこそ幸せの鍵なのです。


神を信頼する戦士が立てあげられた

荒野をさまよっている間も何度か戦いがありましたが、彼らは組織だった軍事訓練を受けたわけではありません。逆に、ことごとく死に絶えてしまった民を神は「戦士」と呼んでいます。

そういった意味において、新しい世代は、戦いに適していないものたちでしたが、神は彼らを戦士とするためにいくつかのことを導きました。それは主の定めを守り行わせること(ヨシュア5:7−11)でしたが、それがもつ大きな意味は「そしり」を打ち砕くことでした。(ヨシュア5:9)「恥、低い自己像」これらのものは、勇士として立ち上がることの大きな妨げだからです。

ギルガルの意味は「ころがす」です。ちょうどラザロがよみがえる前に、墓の入り口をふさいでいた石が転がされたようなものです。
その意思がある限り、たとえラザロが生き返っても、彼は墓から出ることができないのです。私たちに恐れをもたらす低い自己像もそのようなものです。

エレミヤ29章には、エレミヤが迫害を恐れず、預言をしていた頃、彼と同じように主の名によって同じような預言をしているウリヤという人がいました。(エレミヤ26章19節〜24節
しかし、彼は滅ぼされてしまいました。その違いは何だったのでしょうか。それはウリヤが恐れていたことでした。

テレビなどで、アフリカのサバンナでライオンなどの肉食動物が草食動物を襲うシーンを見ることがあることと思います。草食動物がやられてしまう理由は足が遅いからだけではありません。恐れによって体がうまく動かず、もたついてしまうからなのです。

神にまったき信頼を置き、恐れを持たない勇士こそ、有能な神の兵士なのです。

実際、神はヨシュアに「強くあれ雄雄しくあれ」と語り。(ヨシュア1:9

その言葉はイスラエルの民の言葉を通じて確認が与えられました。(ヨシュア1:17-18

イスラエルの民が新リーダーであるヨシュアについていくために出した唯一の条件は「強く、また雄雄しくあること」だったのです。


デボーション

ローマ5章3節〜5節を暗誦しましょう。(ローマ5:1−5

荒野を通った経験がある人は、その経験のどの部分を通じて今の自分が幸せになっているのかを思い巡らしましょう。

自分が恐れているものが何かを主に調べていただきましょう。
その分野を主にゆだねられるように祈りましょう。