5日目:9/28(木) 力の伝道、しるしと不思議


イエスキリストの公の活動の中でいつも伴っていた働きは病の癒しと悪霊からの解放です。

使徒10:38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。

それはまた(イザヤ書61:1〜3)に書かれている事柄です。


力の伝道と言うとハードルが高く感じるかもしれませんが、しかし、意外と簡単です。
というか、ある意味、福音を伝えるよりも簡単です。というのも、やり方にもよりますが、自然に行うこともできるからです。

それは次のようなものです。

1)預言する
2)祝福のために祈る
3)癒しのために祈る


1)預言
預言といっても、何か声色を変えて主は言われる・・・などと言う必要はありません。
相手について感じる好印象を語ることからはじめればよいのです。
「福音」の意味が「祝福のメッセージ」であることを思い出してください。もちろん、純粋で最高の祝福のメッセージは「イエスの十字架と死からの復活。神の子とされること。そして永遠の命などです。」しかし、まず、相手を祝福する言葉を語ることも重要なのです。

たとえ預言なんかしたことが一回も無い人であっても大丈夫です。預言は聖霊の賜物のひとつです。御霊の賜物の存在意義は「みなの益となるために(1コリント12:7)」なので、相手を祝福し、相手に仕えるときに、普段以上に能力を発揮することができるのです。

預言というものは教会の中でしばしば混乱をもたらします。しかし、教会外ではそのようなリスクは少ないです。自然な形で祝福の言葉、励ましの言葉を語ることには何の問題も無いのです。


2)祝福の祈り
祝福のために祈るというのも、実はそれほどハードルは高くありません。
最近は見かけませんが15年ぐらい前まで大通公園で真光(まひかり)や神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)が手かざし(手をその人にかざして祈ること)をしておりました。
彼らはもちろん宗教の勧誘をしているのですが、直接布教するというよりは、手かざしをするときに何かが起こることを信じて相手に好意を与えることを通じて結果的に布教につながるというようなスタンスです。

それを見るときに「公衆の面前でよく祈られて平気だな〜」などと思いましたが、それと同時に啓示も与えられました。クリスチャンも同様に祝福の祈りをすることもできるはずだと。

祝福を祈る際に、相手の許可を得れるなら、手を置いて祈ることもできます。


3)癒しの祈り
そのような流れの中で、癒しのために具体的に祈ることもできます。
私達には人を癒す責任はありません。しかし、病人に手を置いて祈る責任は与えられています。
(マルコ16:17)にあるように。「病人に手を置けば癒される」という言葉の意味は言い換えるなら、「病人に手を置かなければ癒されるものも癒されない」というわけです。
marco_16_17.htm
祈ったからといって癒される保障はありませんが、祈らなければ癒しを見ることができないというのも事実なのです。


祈りの課題とチャレンジ

1) 未信者の為に預言的に祝福の言葉を語ってみましょう。

2) 機会を探して、未信者の方の癒しの為に手を置いて具体的に祈りましょう。