5月17日(木)4日目
サマリア人



サマリア人のイメージといえば滅んでしまった過去の民族であり、聖書の中の一登場人物にすぎないといったマイナーな存在でしょう。
しかし、今日においてもサマリア人のコミュニティーが西岸地区(パレスチナ)にあるゲリジム山の山頂付近にあるということを知れば興味深く感じるかもしれません。

彼らは過ぎ越しの祭りの時期に小羊の生贄をささげる儀式をし、多くの観光客がそれを見に訪れます。最近・シオンとの架け橋イスラエルニュースでも彼らの存在が取り上げられたので耳にした方もおられることと思います。

彼らの起源は(第二列王記18章23節〜41節)にあるようにアッシリヤの王が他の国から連れてきた人々と現地の人との混血だといわれています。そうであったなら、その礼拝方法も純粋なものではありませんが、

今日のサマリア人にそこまで異教的なものには感じません。バビロン捕囚を体験し、また神殿を失ったユダヤ人はその後形を変えてしまったことに比べるなら、ある意味ユダヤ人に比べたらはるかに古代の記憶を残している面があります。

確かに、新約聖書に出てくるアマリア人は偶像礼拝をしているようには見えません。ただ、彼らはエルサレムではなくゲリジム山で礼拝しており、イエス様はそれを霊的な礼拝ではないとしておられます。

※ 現在、彼らは正統派ユダヤ教からユダヤ教の一派として認められております。(その意味はわたしには良くわかりませんが)


このサマリア人の救いのために祈ることは三つの意味で意義があるように感じます。ひとつは、古代の習慣を現在まで保っている民が今でもいるということです。彼らの救いは古代から封じられていた扉を開く鍵のように感じます。
実際、聖書翻訳においてほとんどの場合「ビブリア・ヘブライカ」と呼ばれる旧約聖書の原本ともいえるものから翻訳されますが、時折70人訳と呼ばれるギリシャ語に翻訳されたものも用いられます。そして、「サマリア五書」と呼ばれるモーセ五書の写しも参考にされるのです。霊的な意味において彼らには存在意義があるのです。

二つ目には、イエス様の最後の言葉である。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒 1:8)という言葉です。この言葉は自然な理解としては地理的な福音の広がりの様相について語っているにすぎないでしょう。しかし、その御言葉を逆に取らえるなら、世界で起こっているリバイバルの波をユダヤに届ける為にはサマリヤを通らねばならないともいえるでしょう。

全世界に福音が宣べ伝えられる前に、サマリヤでリバイバルがもう一度起こることが必要なように感じます。イエス様はヨハネ4章4節で「サマリヤを通って行かなければならなかった。」からです。

三つ目の彼らの意義は、彼らがユダヤ教の一派として認められていながら、現在西岸地区と呼ばれているパレスチナの地に住み続けていることにあります。現在西岸地区には数多くの合法的(※)な「入植地Settlement」(約50万人の居住者)や違法の先鋒部隊としての「前哨基地out post」(約数千人の居住者)があり数多くのユダヤ人がすでに住んでいますが、いずれも国際法では違法であり、パレスチナ人との摩擦を生じています。

※ 合法的といってもイスラエル政府は認めていても国際法では違法とされています。

しかし、本当に先住者である、サマリア人という存在はまさに両者の架け橋のような存在です。そんな彼らが聖霊に満たされたクリスチャンになるとしたらそれは大きな預言的な出来事となることでしょう。


祈りの課題

サマリア人の中にリバイバルが起こるように祈りましょう。