5日目:常識と法に則った識別

20世紀に入ってから「信仰という名の虐待」ということばを聴くようになりました。いわゆる教会のカルト化の問題です。でも、こういった事柄をアメリカ人やメキシコ人のクリスチャンに話してもなかなか理解してもらえないということを何度も経験しています。

その教会がカルトかどうかは異端の教理をもっているかどうかを調べてみればわかるよという反応をします。私が言っているのはカルト教会ではなく、カルト化した教会なのですから、いっている意味が通じないのです。

実際、外国にも教会のカルト化というものはありますが、日本のほうがより深刻なようです。


いずれにしても、識別するのには「何を信じているのか」をチェックしたり、霊的な見分けをしていくだけでは十分ではないことがわかります。

ですから、世間の常識や法律にのっとった識別という手段も必要なのです。


今日の教会は、「家族や家庭」という価値観が抜け落ちている部分があります。特に牧師の場合は、時にはあたかも家族を犠牲にすることが信仰であるかのように受け取られる場合すらあります。ですから、そのような聖書に書かれた基本的な事柄がわかっていないなら、足をすくわれやすくなるのです。


最近、「クリスチャン・トゥデイ」という報道サイトがカルト化したグループが運営しているという報告を目にします。

真実はわかりませんが、脱会者が言っているように、@この団体の教理を誰にも話してはならないと口止めされた。A無報酬で働かされた。B入信者に借金をさせて献金させていた。

ということが本当であるなら、このような問題はそもそも「常識」というフィルターを用いるだけで、見分けることができます。ところが現実には、そのような問題は後を絶ちません。

なぜ、そうなってしまうのかといえば、人に話せばすぐにおかしいとわかることであっても、相談させないようにしているので、そうなってしまうのです。


ですから、健全さを図るための第一歩は、誰かに話すことができるかどうかです。もし、それが赦されない、あるいは、気が引けるようであるなら、それだけで十分な危険信号がでているということです。


デボーション

(1) 自分の気持ちをオープンに伝えて相談できる人間関係を持っているでしょうか?

(2) この記事を読んで自分の中に何か矛盾を抱えていると思われることがあるなら、そのことを主に打ち明けましょう。