6日目: 一人歩きをする拡大解釈

聖書を解釈するのはさまざまな方法があります。

ひとつは文字通り書いている通り解釈することです。聖書はその当時に書かれた対象者というのが存在しており、文字通り当てはめます。

もうひとつは、別の時代の別の人に当てはめるということです。

どれも聖書解釈としては正しいです。


また、そういったこととは別に拡大解釈というものもあります。

本来そのようには言っていないことであっても、解釈としては成り立つし、拡大解釈としては有益なことです。

たとえばロ−マ8:26の御言葉が語っている「ふかいうめき」=「異言」ではありませんが、確かに聖霊がうめきを与えることがありますし、また、異言は時にはうめきのようでもあります。

その解釈は、間違いではない拡大解釈です。


それとは別に間違いだが意を得ている解釈があります。

間違った解釈であっても、意を得ているのでそのまま使われる場合があります。

たとえば、「誰が天国に行くとか、誰が地獄に行くなどと言ってはいけない。」という考え方があります。確かに、究極的にはそれは神様の領域です。

イエス様を信じないで死んだように見える人でも、以前福音を聞いてキリストを心に受け入れる祈りをしていたかもしれないし、死ぬ直前に以前聞いた福音を思い出して信じたかもしれません。

ですから、その考え方は正しいです。また、それをサポートする御言葉がローマ10章6節〜8節にあります。

でもその御言葉の引用は正しくありません。なぜならそのことばの引用元は申命記30章11節〜14節であり、「天に昇る」や「地に下る」とは神の教えを受け取りに天や地に行くことを意味しているからです。


これらの解釈から導き出される教えは間違いではないので、そういった解釈も容認されるべきですが、しかし、それは拡大解釈だということを理解して、それを土台にした聖書解釈は慎んだほうがよいでしょう。


拡大解釈にさらに拡大解釈を重ねて別の教えに導くことがありますが、それはしないほうがよいでしょう。

たとえば、「聖霊のバプテスマとは聖霊を受けることだから、それはキリストを信じたときに自動的に受けいている。」という解釈が伝統的にあります。そのような教えを受けると、誰も聖霊のバプテスマを求めたりしないでしょう。

実際、救われたばかりの人のほうが、伝統的な教会に長年通っていた人より受けやすいと思います。