7日目:反省が間違った方向に導く

カトリック教会は自分の持っていた教理に科学的根拠がなかったとしてがガリレオの破門を解きました。
それはよかったのですが、その勢いでダーウィンの進化論を攻撃していたことを悔い改めました。

そのように、何か間違ったことに対して反省をするのはよいことですが、それの度が過ぎて、別の極端に入ってしまうことが起こってしまいます。

そのような大きな事柄でなくても、たとえば子どもを厳しくしつけて育てた親が、それを反省して逆に野放しにしてしまうということも起こりうることです。


ですから、もし、間違いがあったとしても、それはそれ、これはこれとしてしっかりと境界線を引いて、よしあしを見分けていきましょう。


もうひとつの見分ける方法は、何を通じてサタンは私達を責め立てようとしているかです。

たとえば、差別されている人、社会的に弱い立場の人を守るなど一見、よさそうに見えることがあります。しかし、たとえば現在LGBTが「差別反対」などの美辞麗句によって推進されているように、ただ、よさそうに見えることを行えばよいわけではないのです。

逆に言うなら、たとえ、自分が持つ当然の権利であっても、敵に用いられるのであるなら、それを主張することはないのです。


デボーション

(1) 過去の過ちに対して心が引っかかっていることがあるでしょうか?私達の全ての罪や過ちは赦されていることを理解するために主に近づきましょう。

(2) 神が何を語っているのかだけでなく、サタンは何を用いようとしているのかを吟味しましょう。