2日目:キリストのからだの交わりを尊ぶ

キリストは教会に対して、自分たちがキリストの体に属していることを自覚するために聖餐式を行うように言われました。。

(ルカ22章19節)
それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

このルカ22章には聖餐式について書かれていますが、もう一つ重要な個所は第一コリント11章でしょう。


これらの記述を見ればわかるように、聖餐式とは本来、食事の中で行われておりました。

ある意味、ともに食事をすることが聖餐式だったともいえるでしょう。


しかし、ある人たちはその食事の時を尊びませんでした。それは余裕のある人が余裕のない人たちを圧迫する形で成されていたようです。


そのような形で、ともに食事をし、交わることが軽んじられるときに、霊的な世界で何かが作用するようで、何か悪い症状が教会の中で見られるようになりました。

それは、弱い人や病人や死んだ人がかなり出たという事です。


説明を続ける前に勘違いしてほしくないことは、

弱い人、病人、死んだ人がいること自体は、その本人の罪の故ではないという事です。

また、教会の交わりが自己中心的であったり祝福されていないから、そのような状態になってしまったわけでも無いと思います。

神様は病いや問題をもたらす方ではないからです。


しかし、キリストの体の交わりがけがされるときに、そのような症状が改善されず、世の人と同じような程度にしか病気が治ったり、死をまぬがれたりしなかったのではないかと思います。


それでは、どうすればよいのでしょうか?


この問題は、集会の中で小さなパンのかけらとわずかなぶどうジュースを皆と一緒に飲み食いすることについて語っているわけではありません。

また、教会で一緒に食事をすることについて語っているわけではありません。


そうではなく、教会の活動のあらゆることについてです。

といいますのも、いくつかの教会で日曜礼拝ののちに一緒に食事をすることを「愛餐」と呼んでおります。

新約聖書に登場するのはただの一か所で(ユダ1章12節)だけです。

読んで字のごとく、愛という言葉に、晩餐の「餐」という言葉が当てられております。英語でいうならLove feastです。

ではギリシャ語でいうならこの言葉は何なのでしょうか?愛を意味する「アガペ」に食事を意味する言葉の二つで表されると思うかもしれません。

しかし、実際には[agapais]という一言だけが当てられており、その意味は「アガペ」なのです。


このことからわかることは、食事に限らず、(特に)教会の中で行われるあらゆる活動がアガペ「愛」なのです。

そうであるなら、私たちが何をすべきかがわかります。


具体的に考えるために、私たちの教会であれば、午後の時間をどのように使うかについて思いめぐらせてみましょう。

そこでは様々な活動をします。 交わり、食事をし、教え、重荷を負いあい、祈り、勉強や語学を教え、将棋をする人もいるかもしれません。 それらの活動に制限はありません。ただ、それがアガペを促進さえるものかどうかを考えてほしいのです。

人を建て上げ、慰め、励まし、前進する力を与えるものになっているかどうかを考えてほしいのです。


たとえば、子供たちが、どのように遊んでいるのかも重要です。ただやりたいことをして良いわけではなく、必要であれば大人が監督する必要があります。

なぜなら、子供たちの遊びもまた宣教の武器であり、時には、まだイエス様を知らない人が教会に来た時に、その人が救われるかどうか、すなわち、天国に行くか地獄かを分けるほどのこともありうるのです。

と言いますのも、ゲスト(未信者の方)が礼拝であれ、午後の交わりであれ、来られた時に、大人はおそらく大人と話して、また教会に来たいと願うかもしれません。

しかし、その陰でその方が連れてきた子供が、教会で仲間はずれとまで言わなくても一緒に遊ぶことに疎外感を感じたとしたら、その子供はもう教会には来たくなくなることでしょう。

子どもが行きたくないのであるなら、(今の時代)その親ももう教会に来ないことは普通に起こりうることです。

逆に言えば、親はそれほどでもなかったとしても、子供がまた来たいといえば、親もやってくるのです。スーパーキッズクラブ(子ども英語クラブ)に来るようになって救われた方も、そのようにして教会に来るようになったのです。


ですから、教会の中に良い雰囲気を作っていくことは、単により良い教会になっていくことだけではなく、生と死を分けるほどのことなのです。


病気の癒しの話に戻りますが

キリスト教的にいうなら、いやしをもたらす手段には様々なものがあります。手を置いて祈ったり、悪霊に命じたり、霊の戦いをしたり、オリーブ油を塗って祈ったり、長老たちに祈ってもらったり、様々な方法があります。

しかし、実際問題、聖書に書かれた奇跡ほどには病の癒しが起こっていないのが現状ではないでしょうか?

もちろん、奇跡をおこなってくださるのは神様なので、私たちの意思でどうこう言うものではないでしょうが、しかし、思ったほど祈りが聞かれていない理由が、私たちが主に喜ばれるコミュニテイーを形成していないからであるなら、私達は根本的に考え方を変える必要があります。


聖霊派の教会は、手を置く、油を塗る、病に命じるなどといった何かをすることによって癒しがもたらされることを期待しますが、大切なこと、学ぶべきことは他にもあったことを意味するのです。


デボーション

第1コリント11章を読んで、思いめぐらしましょう。

教会の午後の時間の使い方について、今までしてきたことが、建て上げ、励まし、愛を与えるようなものであったのかを考えてみましょう。

また、これから自分に何ができるのか考えてみましょう。