3日目:身体の部分をつなぐあらゆる節々
キリストの身体である教会は人の集まりです。
最初に教会という言葉が登場するのはマタイ16章18節です。
この時にイエス様が使われた教会を意味する言葉はギリシャ語で「エクレシア」です。
初めて登場する割には弟子たちの中でその意味を尋ねる人はいませんでした。
なぜなら、「エクレシア」は当時普通に使われていた言葉だからです。
エクレシアの意味は「集会」です。
特に、ギリシャの都市国家で開かれる市民が参加する議会を意味しておりました。
ですから、イエス様のことばの意味をはっきりとは認識していなくても、人の集まりであることは理解できたと思います。
今日、教会というと、建物を意味すると思われておりますが、3世紀にローマでキリスト教が広まるまで、人々は教会とは人の集まりだと認識しておりました。
今日、このエクレシアに対する適切な翻訳として使われる単語は「会衆」(コングリゲーション)です。
教会が人の集まりであるなら、その建築材料が何であるかもわかります。
それは、木やコンクリートではなく「人」です。
(エペソ4章15節〜16節)にあらゆる節々とあるように、人は様々なものでつながります。
それは第一に「愛」です。そして信頼関係です。またもちろん何よりもキリストに向かう心とそれによる一致です。
また、忘れてはならないのは、ガラテア6章2節にあるように「互いに重荷を負いあう事」なのです。
そのためには、互いが心を開きやすい環境が必要です。
それは、自分の弱さや時には罪でさえさらけ出すことができるオープンな人間関係です。
それは、互いに受け入れあい、裁くような言動をしない環境があって初めて成り立つものです。
他の人を自分よりも優れた人だと考え、尊びあいましょう。
それはまた、信仰の強い人が弱い人の弱さを担うことです。
(ローマ14章1節〜6節)には「信仰の弱い人を受け入れなさい」と書いています。
そして(ローマ14章15節)には、その弱い人のことを「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」と表現しております。
その人の値打ちがキリストのいのちという代価であることを知るなら、尊ぶことができるのです。
デボーション
心がキリストに向かうようにしましょう。
キリストのご性質であるヘリ下りと仕える心を持つことができるように主に求めましょう。