4日目:コミュニティーの力・義人の祈りは働くと力がある

聖書には力強い祈りについて書いてあります。
ヤコブ5章16節「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

この聖書個所はエリヤが850人の偽預言者と対決した時の出来事のことです。(第1列王記18章1節〜46節

エリヤが宣言するとイスラエルは3年六か月雨が降らず、彼が祈ると再び雨が降り出したのです。


こんなに力強い奇跡について書いているのに、多くの人がこの箇所を見過ごしています。なぜなら「義人の祈り」と書いているので自分には関係ないと思ってしまうのです。自分は義人ではないと考えるからです。

しかし、私たちは誰が義人かどうかは自分でその基準を設けてはなりません。
聖書はエリヤが特別な人であるというよりは(ヤコブ5章17節)にあるように「私たちと同じような人だった」と告げています。


それでは普通の人が義人になりえるのはどのようにすればよいのでしょうか?

その聖書個所の前半にはこう書いてあります。
5章16節 「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」

つまり、自分の弱さを言い表し、互いのために祈ることができる人のことをこの箇所では義人だといっているのです。わかりやすく言うなら、コミュニティーにとどまる人だという事です。


このことは、エリヤがコミュニティーから外れた時に何が起こったのかを見ればわかります。

第1列王記19章1節〜18節) に、そのことが書いてあります。

エリヤは勝利しましたが、その後すぐにアハブ王の妻のイゼベルが立ち上がりました。なぜかエリヤはひどく恐れてしまい、震えて逃げ出してしまいました。このことはアハブの妻に働いていた霊が並ならぬものであることが伺えます。イゼベルの霊とは脅かしを与え、預言者を殺す霊なのです。
イゼベルがどんなに怖い霊を持っていたとしても、普段のエリヤであればそれをはねのけることができたはずです。
しかし、偽預言者との対決の後、燃え尽き症候群・・・いわゆる「エリヤ症候群」に陥ってしまいました。
「ただ私だけが残りました(19:14)」と彼がつぶやいたように、彼は孤独の中にいたことがわかります。


彼の落ち込みを大きく加速させた出来事が 19章3節の「ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残した。」という出来事でした。
従者は彼の弟子だったのでしょうか。絶望のあまりその弟子からも離れた時に4節で「自分の死を願った」と書いてあります。

人はコミュニティーを失うときに立ち上がる力ですら失ってしまうのです。


デボーション

教会というコミュニティーはあなたにとって何ですか?そのことについて思いめぐらせましょう。

コミュニティーの中の弱っている人のために祈りましょう。