5日目:コミュニティーの建て上げと破壊

コミュニティーは私たちの守りであり、霊的力のみなもとです。
そうであるなら、私たちはコミュニティーを守る必要があります。

それでは具体的に何を守るのでしょうか。
それは、教会の建築資材が何であるかを考えればわかります。
教会は人によって構成されています。
つまり、人の心を見張るのです。


私たちは、心を見張らねばなりません。

(箴言4章23節) 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。

見守るという単語はヘブライ語の言語で見ると「守る、見張る」という単語です。
守るというと、何か外から悪いものが来るのが入らないように守的なニュアンスを感じさせますが、
見張るというと、その心そのものの変化を見張るような意味に感じさせます。
人は自分の心すらわからないのですから、自分自身を見張る必要があるのです。

「何を見張るよりも」という強調する言葉が使われていますが、ヘブライ語ではこれは、? 4929.( ????????) mishmar (N) 22回?です。
その意味は「監禁、牢屋、守り、見張り」です。つまり、厳重に見張る必要があるのです。
実際、新改訳聖書第3版では「力の限り」と書いてあります。

言うまでもありませんが、
噂話、皮肉、悪いジョーク、うらやましさを伝える言葉、そういったものはコミュニティーを破壊します。


そのような明らかな悪いことはもちろんですが、時には善意で語る言葉がコミュニティーの建て上げにならない場合があります。
たとえば、(エペソ4章25節)には「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。」という言葉がります。

この言葉は、普通に読めば、うそをついてはいけませんという意味ですが、拡大解釈としては自分の本音を出せない状態も意味しているように思います。

相手のことばに傷ついているのに、ただ笑って見過ごす場合なども当たると思います。


一般常識に基づいて判断する

教会内でどのように人間関係を築き上げるために気を付けるべき点は何でしょうか。
それはまず第一に、一般社会の常識に基づいて考えるとよいでしょう。
というのも、教会だという事で、変に霊的になったり、変に聖書的だと勘違いして、一般社会では言わないような失礼なことを平気でいう人もいるからです。

たとえば、これは基礎の学びの中にも書かれていることですが
「実害がなければ謝罪は必要ない」というものがあります。

実際的に相手に害を及ぼしておらず、あなたの「思い」の中で、その人を単に恨んでいたり、ねたんでいたというような場合はその相手に謝罪したり、その罪を告白する必要はありません。なぜならそれは相手に対して犯した罪ではなくその人と神様との間の問題だからです。

これは時々クリスチャンが犯す過ちです。
そのことについて理解するには別の角度から見てみるとよいでしょう。

たとえば、ある男性がある女性に対して「私はあなたに情欲を持ちました。」と告白したらどうでしょうか?
多かれ少なかれ、気分を害することでしょう。
それは女性とは何の関係もないことです。そういったことはコミュニティーを破壊してしまいます。


また間違った発言をするなら「発言を撤回する」というのも有効です。
この方法は一般社会ではそれほど見られません。
家族であるなら、なんとなくあいまいな感じでなあなあで済ませてしまう事が多いでしょう。

後ろめたさがあるので、少し優しくしたり、何かプレゼントをするかもしれません。それによって、気持ちは伝わるかもしれませんが、きちんと発言を撤回することに勝るものはありません。

その傷付けた当人に対してだけでなく、間違ったうわさや特定な人の否定的な印象を広めてしまったのなら、その言葉を聞かせてしまった人のところに行って発言を撤回することもできます。
そこまで、する人はほとんどいませんが、それができるならそれは素晴らしいことです。


デボーション

自分の心を見張り吟味しましょう。

教会内の必要のある人のために祈りましょう