3日目:砕かれた器

3)砕かれた器
先にエペソ書1章後半の御言葉に従って「神にあって自分がどのようなものなのか」「神にある富を知る」、そのために霊的な目が開かれる必要がある。・・・等といったことについて書きました。

教会に通っているクリスチャンの中には「そんなことはもう知っている」と言いたい人もいることでしょう。しかし、すべての人がそれを体験しているわけではありません。
それでは、それが重要だというのであるなら、どのようにすれば体験できるのでしょうか。

これから書くことは、すべての人にとっての答えではないかもしれませんが、誰であって当てはまる有益な情報だと思います。

必要な事は、自分自身を砕くことです。
それはもちろん悔い改めという意味もあります。

ただ、今回砕くという表現をした理由は、悔い改めというと何か具体的に罪を犯したというような状況を思い浮かべる人も多いので、自分には関係ないと思われがちだからです。
罪を犯している人はその自覚がないことも多いというのもそう理由です。

多くのクリスチャンは、大きな罪を犯さないように無難に生きようとしているかもしれません。


しかし黙示録3章15節〜16節では
「冷たいか熱いかであってほしい。」と。そして言葉を続けます。そういう人に対して「わたしは口からあなたを吐き出す。」と語っているのです。

人は不完全なものです。ですから仏教的な言い方をするなら煩悩はありますし、自己中心になってしまったりします。しかし、それでよいのです。
大切なのは、そんな自分を自覚して誰のところに進み出るのかです。

そして自分を砕くことです。
それこそ真のいけにえであると詩篇51:17に書いてあります。

詩篇51編全文


この出来事には前振りがあります。

ダビデは24時間の賛美と祈りをはじめした。
神の為に神殿を建設することを願い契約の箱をエルサレムに運び込んだものの、主によってそれを禁じられた彼は苦肉の策として、天幕に箱を安置しそこで賛美を捧げる礼拝形式を確立しました。
それは後に神様が与える礼拝形式の先駆けであり、彼が勝手に始めたように見えても、くすしくも御心の先取であったのです。それゆえ神はダビデを大いに祝福されました。
そしてダビデも神の臨在の元、神との交わりを楽しみました。
しかしながら、だからと言っていけにえを捧げること(犠牲を払う事=自分自身を捧げること)が不要になったわけではありません。
犠牲をささげることが(ある意味)軽んじられる中、何らかの理由でダビデの心におごりが生まれたのでしょう。

ですからその回復の手始めに主が示したことはいけにえを捧げることでした。

第2サムエル記24:24 しかし王はアラウナに言った。「いや、私は代金を払って、あなたから買いたい。費用もかけずに、私の神、【主】に全焼のささげ物を献げたくはない。」そしてダビデは、打ち場と牛を銀五十シェケルで買った。

犠牲を伴うのです。
私たちはいけにえを捧げる必要があります。
いけにえというと、献金や祈りや賛美、礼拝出席を思い浮かべるかみそれません。
しかし、忘れがちなのは自分の心を砕くといういけにえです。


自分を砕くときに自分が失われてしまうように感じるかもしれません。

しかし、そうではなく、実際にはその逆です。

私たちは生きるのです。そして豊かな実を結ぶのです。

ヨハネの福音書15章2節にあるように、私たちが刈込をされるのはそれは豊かな実を結ぶためだからです。


この刈込は、聖書の別の個所では「陶器師」と壺の関係になぞらえられております。

SCGの賛美の中に「主の栄光を仰いで」という曲があります。(「音声」をクリックすると試聴できますのでお聞きください。)

この曲の中にある印象的な部分は「われを砕いて作りかえてください」という歌詞です。

この歌詞によりますと、その砕かれる過程は聖霊の満たしと神の愛の中で行われます。

私たちが砕かれるときに神の栄光を見るのです。


そして、この砕かれた器が集まるときに健全な教会が建て上げられるのです。


祈りとデボーションのポイント

1) 現在心が砕かれていると感じる人は、自分が神様の御心の真ん中にいることを知りましょう。

2) 今現在マンネリとなっている部分や、とらわれている事柄があるかどうか思いめぐらしましょう。

3) それが神の国の為に有益かどうかを神様の前にもっていきましょう。

4) 変革がされるように求めましょう。