4日目:キリストの体

第1コリント 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

キリストの体について語る場合に、この御言葉は欠かせないものです。
これに関する御言葉の全体を見ればわかりますが

大きく分けて2つの部分に分けることができます。

  1. 一つは私たちは互いを必要としているという部分です。
  2. もう一つは一人一人には役割があるという部分です。

そして、その共同体は(第1コリント12章26節にあるように)互いをいたわり合い、喜びを分かち合う関係です。

もちろんすべての人が他のメンバーの祝福を素直に喜べないこともあるでしょう。
しかし、自分が御言葉が言うとおりにできないからと言って嘆くことはありません。
御言葉は鏡のようなものなので、自分の態度が御言葉と異なるずれを感じるときに、自分の態度を知り、かけた部分を主に求めることができるのです。

ふさわしくないと感じてしまう事柄のリスト


第1コリント12章からキリストの体について語るときに、多くの場合賜物についてであったり、役割があるという事、そして兄弟姉妹との関係について語られることが多いと思いますが、今日は普遍的教会としてのキリストの体について見ていきます。

そういう言い方をした場合、キリストの花嫁という視点が取り上げられるかもしれません。それは大切な教えですが、ただ、それについて語るときに、日常生活からかけ離れた抽象的なものになってしまうかもしれません。

私たちが、主によって贖われたのは、ローマ 7:4第1コリント 10:16にあるようにキリストがご自身の身体を犠牲として差し出してくださったからです。

ここでいう「キリストの体」とは文脈から言って教会というよりも犠牲となったその体ご自身です。それらは区別されるべきものですが、しかし、第1コリント10章から12章全体を読み進めるにあたって、キリストのからだである教会とは、人類の罪の贖いの為に引き裂かれたキリストの肉体を引き継ぐものであることを思わされてなりません。

その両者に関連があることはコロサイ1章24節のパウロの一見不可解な「自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」という言葉に現れております。

この言葉をもって「キリストの犠牲は十分ではなかった」「私たちも苦しまなければならない」と言って駆り立てるカルト化教会があるようですが、もちろんそれは間違いです。

キリストの犠牲は人類を救い私たちを救うための十分な贖いの代価です。

しかし、救われた私たちは、ただそれだけで、天国に入るのを待っている隠居生活をするわけではありません。

キリストの体、すなわち手として足として用いられていくのです。


ですから、キリストの体であるということは単に、自分に居場所があるとか、そういうレベルの話ではありません。

ですから、神にある正しいアイデンティティーを身に着けるためには、私達にはこの地上で役割があることを知らねばなりません。

次回はその役割について見ていきます。


祈りとデボーションのポイント

1) 一つのキリストの身体として世界の信者たちの為に祈りましょう。

2) 教会の兄弟姉妹たちの為に祈りましょう。

3) 教会に居場所がない、ふさわしくないと感じる人がいるなら、自分に何が必要なのかを祈り求めましょう。

4) キリストの身体として教会をそして社会にどのように仕えることができるか祈り求めましょう。