2日目: 参加
教会がキリストの体であるなら、メンバーが所属意識を持ち、互いに仕え合うときにそのポテンシャルが最大限に引き出されます。
しかし、神の国の価値観はパフォーマンス主義とは異なります。
救われた喜びによって参加するのであればよいのですが、参加することが目的となり心が伴っていないのに、外側だけ何かを行うとしたらそれは本末転倒です。
★「枯れる教会」に見られるその反対の意味★
それは「受け身でお世話されること」 です。
このように書くと、少し引け目を感じてしまう人がいるかもしれません。
自分は何もしていないと感じる人がいるかもしれません。
これには少し説明が必要でしょう。教会でお世話されること自体は問題ではありません。人それぞれ成長の段階があります。
人生がその初めの段階において、すなわち赤ちゃんの時に何もできないのに愛され、つまり「無条件の愛」を体験し、お世話されることによって愛され受け入れられているというアイデンティティーが形作られます。
しかし、そういった経験が乏しい人はアイデンティティティーが揺らいでおり、自信がなく傷つきやすいので、信仰の成長も遅れがちです。
そういった中、信仰の初期の段階で愛され受け入れられる経験をすることは大切です。それによって良い信仰のアイデンティティーを受け取ることができるからです。
こういったことは、信仰の初期の段階だけでなく、信仰生活を何年していたとしても、受け取りそこねていたなら、受け取る必要があります。
つまり、何年たっても受け取る側にいることが容認されるべきなのです。
「何もせずに受け取り続ける立場の人」が容認されるという話だけを聞くと、それはまさに「参加」ではなく、「受け身でお世話される」教会なので反対の話をしているように感じるかもしれません。
一つの大きな違いは、
「心を開き、心の内にあるものを分かち合う」
というという教会の基本方針を理解しているのかどうかということです。
つまり、それができているなら、受け身でお世話されているように見えても、長期的には、自分の変革のプログラムに「参加」しているというわけです。
そして、そのような価値観を教会全体で共有されるときに、結果的には、教会が変革されていくのです。
★祈りの課題★
互いに励まし合い、参加していくことができるように。
弱い立場にいる人を思いやり、寄り添うことができるように。
そのような価値観を教会で共有し、それに基づいた教会形成ができるように。