B 番目の記事

−5(火曜日)(配信は月曜日)

自由意思に基づくことのリスク

第一コリント6章12節にあるように人には完全な自由が与えられておりますが、だからといって自由に生きてよいわけではありません。

6:12 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。

本当の自由人というのは与えられた完全な自由の中で、神様の御心と最善を追い求めその内を生きることです。


聖書は、私たちにどのように生きるのかの指針を示しております。
旧約聖書では律法という形で、新約聖書では神の御霊によって動かされる霊の律法によって私たちが神の御心に従って歩めるようにされております。

エレミヤ31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。


キリストは律法を終わらせたので私たちは律法を守らなくてもよい自由人だと考える人がいます。
おそらくそれは新改訳聖書で第3版までがローマ10:4を 「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」と訳したためにそのように勘違いしているのです。

正しい翻訳は2017年版にあるように「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。」です。

第3版で「終わらせた」2017年版で「目指すもの」と訳された言葉のギリシャ語の言語は? 5056. telos (テス)41回?で、その意味は「終わり、イベント、物事、目的、目標」です。


ですから、今日私たちは律法主義的に律法を守るのではなく、私たちの内に住まわせた神の御霊によって律法の本質を行うことが求められているのです。

律法の本質とは、書いている言葉をその通りに行うことではありません。
律法には食べてよいものとだめなものが書かれていますが、それに従うことではありません。
しかし、その本質は、何でもかんでも私たちの内に(心に)取り込んで良いわけではないことを示しています。

たとえば、豚肉を食べないとか律法の食物規定を守りながら、この世の価値観にさらされそれらを取り込んでいるならそれは本末転倒なのです。


ヤコブ1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

 


そのようなわけで、教会としてはメンバーに対して、神の御心は何か、どのようにするべきかを教えることになるのですが、それが御霊によって見分け動かされ自由意思に基づいた行動でなければ、本来あるべき姿とは違ったものとなってしまいます。

ここに教会運営の難しさがあります。指導者はどうすればよいかをある程度知っており、メンバーがその通りに生きていないのを見ても、それを指導すればよいというわけではないとしたら、その現状に対してどうすればよいのか悩んでしまう事でしょう。


いずれにしても私たちはこのみことばを心に留めていなければなりません。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


デボーション

ローマ12章1節2節を思いめぐらしましょう。