C−4(水曜日)(配信は火曜日)

自由意志による献金システムのリスク

前回自由意志について見てきましたが今回は自由意志による献金システムのリスクについて考えてみましょう。

私たちの教会では自由意思に基づいて献金するシステムを取っております。すなわち、だれがいくら献金したのかがわからないシステムです。

聖書にはこう書いているからです。

第2コリント9:6 私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
9:7 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

そのように献金は自由意志によるものですが、それと同時に、マラキ書を見るなら、収入の十分の一を捧げることについて書いてありますし、その他の奉納物についても書いてますので、「初物献金」(たとえば、初めて職に就いたときや結婚したときにその月の収入のすべてをささげる)や、「感謝献金」(祈りが答えられたり、何らかの節目で捧げる献金)などをするのは良いことです。


もちろん、厳密に言えば、私たちは旧約聖書の時代には生きていませんので当時の律法をどう解釈するかは人によって意見が分かれることでしょう。
それでも、前回書いたように、今日私たちは律法の元にはいませんが、律法の本質を行う必要があるというのであるなら。そういった捧げものをすることは妥当であると考えます。

教会として願っていることは一人一人が神様の臨在とその力を実感し、人生が変えられ回復し、発展するという手ごたえを感じつつ、喜んで心から捧げることができるようになることです。

つまり、ちょっと俗っぽい言い方ですが「お代は見てのお帰り」的なもの、すなわち、キリストを信じて人生が変えられた結果、その感謝にあふれて収入の十分の一や初物、そして臨時収入やその他の機会に捧げられるようにあることです。


とはいえ、人間というものは弱いものです。
最初喜びと信仰によって始めたことであっても、信仰生活がマンネリになるにしたがってそれらが失われ捧げる意欲も失われてしまうというようなことが起こってしまうかもしれません。

教会の献金収入が下がることは運営上支障をきたしますが、支障をきたす理由は単にお金の問題ではなく、メンバーが信仰や喜びを失っている可能性があるからです。

ですから、私たちは常に聖霊に満たされている必要があるのです。
その為にも御言葉に親しむ必要があるのです。

それによって強い教会が形成されるのです。

献金についてさらに学びたい方は基礎の学びのページをご覧ください

F−2整えられるために「献金」


デボーション

あなたの心はどこにあるでしょうか?

次の御言葉に、心のありかを知る為のヒントがあります。

みことばを思いめぐらし祈りましょう。

(マタイ6:19-21) 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。、、6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。、、、6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。