■(5)■ 異言に関する勘違い ■
ネットでは、「今日では異言はなくなった」というような見解が、伝統派、主流派、および一部の福音派の牧師や教師が語っているのを目にします。
しかし、その主張は説得力が乏しいです。
なぜなら、異言はなくなったという人は、ほぼ間違いなく異言で祈ることができない人たちだからです。
その姿は、パリに行ったことが無い人が「パリなど存在しない」と言っているようにも聞こえます。
ごくまれに、かつては異言で祈っていたが、もう祈れない、あれは勘違いだったという人もいますが、そういう人は、異言で祈ることの本当の醍醐味を体験していない人か、あるいは、以前属していた教会がカルト化したり、権威主義的になったりと何らかの問題を抱えていたので、そこでの経験を否定したいなどというような理由によります。
そのようなことが教会の教理に対しても起こりうるのです。
(例話)白い鹿がいるのかどうかの論争:
ある人は白い鹿はいると言いました。それを目撃したからです。別の人はそんなものは存在しないと言いました。見たことが無いからです。
では、どちらが正しいのでしょうか。究極的に言えば、わかりませんが、論理的に言うなら、「いる派」の人は見たのでいるといい、「いない派」の人は見ていないのでいないと言っています。
つまり、前者には根拠があり、後者には根拠がないという事です。
異言を否定する人たちの根拠は主に次の通りです。
.1)使徒の働き2章の異言は具体的な外国語であって訳の分からない言語ではない。
.2)聖霊のバプテスマを受けた人の多くが変えられていない生活をしている
.3)新約聖書が完成したので、しるし不思議や異言は必要なくなった。
.4)異言は言語とは言えない
.5)繰り返しのマントラのような祈りを聖書は禁じている
.6)異言は解き明かさなければ意味がない。
.1)使徒の働き2章の異言は具体的な外国語であって訳の分からない言語ではない。
確かに、その箇所では外国語が超自然的に語られたようです。しかし、その後は、はっきりと外国語である異言が語られた形跡はなく、むしろ、(1コリ14:2〜9)(1コリ14:23)
等の御言葉を読むときに、デフォルトは意味を理解できない言葉であることが分かります。
.2)聖霊のバプテスマを受けた人の多くが変えられていない生活をしている
この主張は、あふれ出るほどに聖霊に満たされているのだったら、超聖人のように変えられ聖化されるはずなのに、その人の生活を見たら、別に普通のクリスチャンと変わらないじゃないか。
なんなら、清くない生活をしているじゃないかという批判です。
気持ちはわかりますが、聖いのは聖霊であって、人ではありません。
聖霊のバプテスマを受けることは聖い歩みをする上で大きな助けになりますが、それによって、すべてが変えられるわけはないのです。
.3)新約聖書が完成したので、しるし不思議や異言は必要なくなった。
これはキリスト教会の主流派、保守派、多くの福音派の教会に見らえる特徴です。
彼らは、しるしとしての奇跡はもう起こらない、異言はない、預言もないと主張します。
しかし、聖書にはそれらがなくなった、今日では起こらないという記述はないのです。
あるとしたら、第1コリント13章10節の「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれる」という言葉です。
しかし、この解釈は、彼らの主張に合わせて、聖書を持ってきてこじつけたものであって、根拠はありません。
彼らの主張はこうです。
新約聖書という完全なものが完成したので、「異言や預言はすたれてしまう」というものです。
この解釈は3つの過ちを犯しております。
.(1) 完全なものとは新約聖書であるという勘違い
.(2) すたれる時期は十二使徒のすべてが死に絶えた頃であるという根拠のない説明
.(3) 復活するという記述が聖書にない以上、20世紀に入ってから復活するのはおかしい。
.(4) 子供っぽいと書かれた事柄が異言を語る事であるという勘違い
.(1) 完全なものとは新約聖書であるという勘違い
彼らは第1コリント13:10に書かれた「完全なもの」とは新約聖書の事であると考えます。
しかし、それは変な話です。彼らの解釈が正しければ、異言がすたれた以後の時代は、完全なものと「顔と顔を合わせて見る」ほどの時が来ると言っているのです。
しかし、今日の私たちは新約聖書を顔と顔を合わせるほどの理解ができているでしょうか?
できていないと思います。そうであるなら、その完全なものとは新約聖書をさしているわけではないことが分かります。
ここで、新約聖書としていますが、別の牧師は完全なものとはキリストの再臨としながらも、預言と知識はその時にすたれて、異言だけは初期の教会で終わったとしております。
彼がしている説明は「異言イコール通常の外国語である」という前提で語られているので、異言そのものがすたれる理由については合理的な説明はされておりません。
.(2) すたれる時期は十二使徒のすべてが死に絶えた頃であるという根拠のない説明
最後の使徒であるヨハネが死んだのは、AD100年頃だと言われています。彼が最後に書いたのが「ヨハネの黙示録」です。それをもってして、新約聖書は書き終わったとされています。
新約聖書が書き終わったので、完全なものが現れたと彼らは解釈し、その頃にしるしとしての聖霊の賜物もすたれたと解釈しております。
しかし、そもそも、完全なものが新約聖書を指していない以上、その時期についても根拠がないのです。
.(3) 復活するという記述が聖書にない以上、20世紀に入ってから復活するのはおかしいという勘違い
彼らは、聖書にそう書いていないにもかかわらず聖霊の賜物を勝手に終わったと説明しています。そしてさらに、「それが復活するという記述がないのに、復活したと主張するのはおかしい」といいます。
でも、復活すると書いていないのは当然のことです。だって、無くなるとは書いておらず、実際無くなってもいないからです。
※ 実際に中世の暗黒時代には多くの聖霊の賜物が陰をひそめてしまい、16世紀の宗教改革以後少しづつ回復していったという事実はありますが、それでも、その間まったくなくなったわけではありません。世界の片隅でひそかに聖霊の賜物を守り続けていたクリスチャンがいたと思います。
.(4) 子供っぽいと書かれた事柄が異言を語る事であるという勘違い
第1コリント13章11節に書かれた御言葉を根拠に、異言を語ることは子供っぽいと主張する人がいます。
しかし、そんなことはありません。(第1コリント13:8)に当てはめると、すたれるもの、幼稚なものとして「知識」も挙げられております。
しかし、現実的には、知識は今日でも必要です。ですから、その解釈は間違いなのです。
.4)異言は言語とは言えない
異言はギリシャ語で「舌」を意味する言葉です。
もちろん、舌を意味する言葉を用いて「言語」という意味で使う原語は世界中にありますが、この現象を「舌」と表現するのはぴったりだと思います。
三日目の「異言とは何か」でも語ったように、異言とはまさに「 人間には理解できない舌の動き 」なのです。
彼らは、「シャンバラバン」などと繰り返して語られるように聞こえる異言は文法的な秩序が無いので言語とは言えないと彼らは主張します。
しかし(イザヤ28:11)で、異言と思われることに対して「もつれた舌」と表現されているのを見るときに、それは、意味不明瞭でばかげたものとしてとらえられているほどのものであることが分かります。
.5)繰り返しのマントラのような祈りを聖書は禁じている
マタイ6章7節に 同じことばを繰り返す祈りをしてはならないと書いていることから、異言もそれに相当するという人がいますがそうではありません。
イエス様が戒めているのは、心のこもらない形式的な祈りであり、聖霊による祈りは聖書によって認められているものなので、マントラとは別物だからです。
その理由は(第1コリント14:2)にあるように次の2つです。
.(1) 異言は御霊に導かれてのものである
.(2) 人間に向けてのものではなく神に語るものである。
.6)異言は解き明かさなければ意味がない。
(第1コリント14章27節)に異言を解き明かせないなら黙っていなさいとあるので、解き明かされない異言には意味がないと考える人がいますがそうではありません。
しかし、さまざまな聖書箇所から推論できることはもともと解き明かせない異言が存在することと、解き明かした異言についての言及が聖書のどこにもないことから、解き明かせない方が圧倒的多数なのだと思われます。
たとえば「聖霊のバプテスマを受けたしるし」 としての異言の場合には(使徒10:46) (使徒19:6)にあるように、外国語ではないようですし、異言を解き明かしたとも記録されてありません。
※ もちろん、論理的には、書かれていないだけというだけという事もできますが、聖書を理解する上では無かったと考えるのが普通です。
異言は解き明かさなくても「個人の徳を高める 」.と書かれているように、個人を建て上げる為に有用なのです。
デボーションのヒント
1) もし、以前学んだ教えや神学によって、聖霊のダイナミックな力を受け取ることが妨げられているのでしたら、それを取り除くべきです。
2) 変えられた新しい思いが与えられたら、新しい歩みを始めましょう。すなわち、御霊に満たされ、聖霊の力に満たされたあゆみ、そして何よりも、御霊の実と呼ばれる人格を受け取りましょう。