3日目:「導き」という言葉が使われる3つのパターン
パターンその@「預言や夢」

導きという言葉はキリスト教用語としてよく使われております。

その言葉の出現には大きく分けて3つあるように思います。

一つは、預言や夢で示されたりするような明らかに神様が語ったと確信できるような場合

二つ目には、良くはわからないけれど、心に平安がある等の理由で、確信を感じて選んだ場合

三つ目に、結果的にうまくいった等の理由で、「あれは導かれていたんだ」「そうなるようになっていたんだ」と感じる場合です。

もちろん、それらの間の中間的な物もありますので、一概には分類できませんが、ここでは大きく三つに分けて3回に分けて考えたいと思います。


パターンその@「預言や夢」


多くの人は、耳で聞くように神様の声を聞いたり、預言的賜物を持っている人の言葉によって励まされたり、夢で示されるような明らかと思える導きを受け取ることを願います。

そして実際、神様はその様にして示すことができます。

しかし、実情としては、いつもその様に導かれるわけではありません。

どんなに、的確と思える預言をする預言者がいたとしても、外れることもあります。


どうして預言が外れるのかと言いますと、旧約聖書の時代に預言者が預言を鵜受け取る方法は、たとえるなら、受け取ったEmailを転送するようなものだったので、一言一句間違いなく神の言葉でしたが、新約の時代においては、内側に住まわれる聖霊という受信機によって受け取った神様からの言葉や印象を、預言者の感覚や、経験、そして知識に照らし合わせて、消化して、それを語ることになるからです。

ですから、どうしても間違いが生じます。

というか、新約聖書には「吟味しなさい」と書いています。これは旧約聖書には見られない表現です。


もちろん、訓練次第というか、神様との親しい関係を深めるにつれて、預言は的確になっていくことでしょう。

しかし、絶対に完全になることはできません。


これには幾つかの理由がありますが、その一つは、神様はたった一人の完全な人による完成された働きを望んでいないからです。

そして、ひつようとあれば、神様がわざと間違えさせることもあるのです。

なぜなら、人は弱いものなので、その人が高慢になることは望まないからです。

また、たとえその人が高潔な人格を有していたとしても、周りから神のようにあがめられることを望まないからです。


(note)ちなみにこれは、時々見かける、癒しの伝道者が病気で死ぬことにも似ております。

病気になって癒されなかったからと言って、その人が罪を犯したとか、そういうわけではありません。

理由は様々ですが、そういう事も起こりうるのです。


そのようなわけで、どのような預言を受けたり、夢を見たり、奇跡的な状況を通じて、神様が導き語りかけたりしたからといっても、それが御心であるとは限りません。

常に、吟味し、様々な方向から検証する姿勢を持つ必要があります。


とはいっても、預言者が語った言葉が本当かどうかはをその場で検証するのは困難です。

※ もちろん、御言葉に矛盾しないかなどといった基本的な検証は可能ですが。

大切なことは、預言の言葉を絶対的な言葉として握りしめるのではなく、一つの確認程度にされると良いでしょう。


使徒の働き13章で、パウロとバルナバは新しい召しを受けて、宣教に出ました。

この時聖霊が語ったことは、日本語では「私が召した召し」とありますが、原語のニュアンスを意訳するなら「私がこれまで、いろんな機会を通じて示し続けてきた召し」という意味です。

つまり、13章1節の時点で、突然聖霊に語られて、それですぐさま、応答して宣教に出たのではなく。

継続した時間の中で、何度も召しが示されていたということです。

しかし、厳密に言うなら、事実そのようになり、結果的にはうまくいったからと言って、神様が導いたとは限りません。


ですから、この記事においては、結果的に神様の御心に沿った状況になったことと、導きを分けて考えたいと思います。


へブライ語でとりなしを意味する単語の一つに「パガ」があります。

聖書の中で「祈った」としか書いていないけれど、状況的に見て、あきらかにとりなし祈っている箇所は数多くありますが、それは「パラル」という別の単語が用いられております。

パガという単語はどういう状況で使われるのかと言えば、実は「とりなし」という意味で使われる箇所はほんのわずかで、「打つ、たどりつく、交渉する、しむける」などといった、一見全然関係ない事柄を表現する為に用いられております。


その中の「たどりつく」について見ていきたいと思います。

登場する箇所は、創世記28章11節です。

これはヤコブがエサウを避けての逃避行が始まり、「ある所」にたどり着いた時の事です。

このある所こそ、神の家を意味するベテルだったのです。

この場所は特別な場所でした。

御使いが上り下りしていることからわかるように、この場所は天と地がつながる場所だったからです。


神様にとって、是非ヤコブを導きたかった場所ですが、だからと言って、ヤコブに預言を与えたり、確信を与えてこの場所に導いたわけではありません。

むしろ、ヤコブは逃げるのに必死だっただけだったと思います。


つまり、ヤコブが導かれたというよりは、たまたま行った行動が、神様にとっては必然的であったということです。

これこそ神さまがなされる御業です。

そしてまた、これが、「神の導き」というものが、その類型をはっきりと別ける事ができない事の表れです。

そしてさらに、これがクリスチャンとしての歩みを面白くしているのです。

 


デボーション

神様は、求める者にはその道を示してくださいます。明確な預言の言葉、御言葉による示し、語りかけを求めましょう。

過去に体験した、偶然が必然であった出来事を思い起こし、それを思いめぐらし、神様のよさを味わったり、失敗に対して慰めを受け取りましょう。