4日目:「導き」の3つのパターンA「心に感じる確信」


見出しは「心に感じる確信」ですが、他にもっと良い表現があると思います。

というのも、前回も言いましたが、こういった確信には幅があるからです。

つまり、「なんとなく」という程度もあれば、「根拠はないけれど、確固たる確信」と言うものもあります。


いずれにしても、「導きを感じる」というのは、多くの場、このカテゴリーに属するように思います。

そして、こういった種類の確信というものは、後になってから、「それでよかった」とか、「勘違いだった」、あるいは、「どちらともいえないといった」などという感想を持てるように思います。


つまり、様々な経験を繰り返しながら、感覚を研ぎ澄ますというか、見分ける目を養って行くものなのです。

見分ける目を養うと言っても、自分でも十分満足できるレベルにまでになることはできないことでしょう。

なぜなら、それは先日に語った「預言の精度」にも共通することですが、私達が完璧であることを神様は願っていないので、「やっとわかった、もうこれで大丈夫」というふうにはなかなかならないのです。


ですから、私達に必要なことは、自分の不完全さを自覚し、ただ、神様の御心を求めて、最善を尽くすだけなのです。


聖書の中には、神様に導かれたと感じたら、自分の願いや感情に反しても、それを選ぶケースが時々登場します。

最も大きくまた、代表的なものは、アブラハムがイサクを捧げた場面です。

創世記22章1節〜3節

それを見て、そのようにすることが信仰の歩みだと考える人もいると思います。もちろん、時には、そのような場合もあることでしょう。

しかし、アブラハムの場合は、それまでに積み上げていた、神様との交わり、信頼関係、そして実績というものがありました。


神様は、私達に、謎解きを求めているわけではないと思います。

ですから、それまで何の音沙汰もなかった神様が、私達が困っている場面に、急に自分の願いや感情に反したクイズを出す等なことはなされないことでしょう。


この、心に感じる確信と言うのは、幅がかなりあるので、ある意味神様の導きのなかでももっともポピュラーなものです。

どのように見分けるのかについては、神様との関係、御言葉に触れ合うことなどの日々の積み重ねです。ですから、毎日の生活を大切にしていきたいと思います。


デボーション

祈り、御言葉、賛美、交わり等といった事柄の中で自分が弱いとこ難じる部分はどれでしょうか?

祈りの中で神様との親しい交わりをしていきましょう。

これらの意味が分からない方は誰かに相談しましょう。