5日目:「導き」の3つのパターンそのB「良い結果」
三つ目に、結果的にうまくいった等の理由で、「あれは導かれていたんだ」「そうなるようになっていたんだ」と感じる場合です。
良い結果を得ることは「導きにしたがって選択したことの根拠」として説得力があります。
神様は私達に良いものを与える方なので、良い結果を得ることによって判断できるからです。
とはいえ、悪い結果だったからと言って、御心ではなかったとは言えないし、良い結果だからと言って御心であったとは言えません。
たとえば、パウロが難破した船がそうでした。
当初は風向きが悪かったので、航海の途中で足止めを食らいましたが、良い風が吹いた時に、これぞ御心!とばかりに出港しましたが、結局嵐で難破して船を失ってしまいました。
逆に、パウロがエルサレムに行くのを周囲の人たちが止めた理由は、苦難が待っていることが分かっていたからです。「苦しむことは御心ではないよ」と言わんばかりでした。
しかし、それは神の計画であり、パウロは逮捕された後、ローマへの道を歩み出したのでした。
そのようなわけで、結果的に良いか悪いかではっきりと判断する事はできません。
ではどうすればよいのでしょうか?
これは、この件に関する直接的な回答ではありませんが、参考になるので、ここの書いておきます。
私の好きな言葉の中に「順境の時には喜び、逆境の時には反省せよ」(箴言7章14節)というものがあります。
つまり、それが御心であったかどうかよくわからなかったが、その結果上手くいっていると感じたときには、それを喜べばよいというものです。
ただ、ここで、一つ注意するべきことがあります。
それは、上手くいったからといって、「御心であった」と主張しすぎないことです。
私達はただ、謙虚に、主の慈しみと恵みを味わえばよいのであって、それ以上でも以下でもないのです。
それと同時に、「逆境の時には反省せよ」という言葉にあるように、(これは時にはつらい思いをするかもしれませんが)全てが神様の見ての中にあることを理解し、慰めと平安があり、神様が全てを益と変えてくださることを理解しているなら、それに向き合うことによって、見分ける力が養えるかもしれません。
今回の教えの主旨を理解していただけているでしょうか?
多くの場合、YesかNoかを気にします。
つまり、あれは御心であったのかどうかについて気にするのです。しかし、パターンB、すなわち「結果は良かったが、その他のパターン@やAのように明確な確信はなかった」というようなケースにおいては、それを喜んで受け取るところまでは良いのですが、それ以上に、私は御心を歩んでいるとか、自分が霊的とか、神様に祝福されているとか、自分の分を超えて思い上がる必要はないのです。
私達は常に、謙虚な態度でいて、良いものを受け取り、悪いもの(自分の悪い態度や高慢も含めて)を遠ざける歩みを積み重ねるだけなのです。
デボーション
これまでの出来事を思いめぐらし、良い結果を得たことを主に感謝し喜びましょう。
悪かった過去の経験に対して、主に介入していただき、慰めと平安を得ましょう。