とりなし通信:010 2008/05/27

5月23日(金)合同賛美と祈りの集会で分かち合った事の要約


40日間の連鎖の断食と祈りのときを持つに当たって。

今回の鍵となるテーマの御言葉として次の言葉を提供いたします。イザヤ書41章1節〜4節

イザヤ41章(1節) 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。(2節)だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。(3節)彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。(4節)だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。

2節に「ひとりの者」を東から起こしたと書いています。この一人の人とは島々からなる東の国のひとつのキリストの体を現しています。この体はひとつの体であり分裂した体ではありません。今、神は主の御霊によるひとつの教会をこの地に起こされているのです。

2節を新共同訳で見るなら「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き」と書いているように、単にやってきただけではありません。(1)神によって召され、(2)霊が奮い立たせられたのです。私は霊が奮い立ち興奮して立ち上がっている日本の民の姿を見ています。エズラ記では神の霊によって奮い立たせられたものたちがエルサレムの神殿を再建したのです。同様にこの日の昇る国においても霊が奮い立たされたったものたちが城壁を築きなおしダビデの幕屋を再建させるのです。

「足もとに招き」とあるように、私たちはへりくだりと一致をもって神のもとに参ります。神はその足もとにひざまずくへりくだったものを、その御言葉(レーマ)によって養われます。マリヤが主の足もとに座りその口からでる一つ一つの言葉によって養われたようにです。


また、この「ひとりの者」とは、義の太陽であるキリストであります。教会はキリストの体です。教会が立ち上がっているだけではなく、当然、頭なるキリスト自身が立ち上がっておられるのです。すなわち、日の昇る国がその与えられた預言的な約束と力を宣言するときに、義の太陽が立ち上がるのです。

義の太陽にはマラキ書の約束に従って「いやしの翼」があります。


その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。(詩篇19:4-5)

日の昇る国はこの義なる太陽のために設けられた幕屋です。神の栄光が宿る幕屋なのです。私たちの賛美と祈りは勇士なる方が喜び走る走路を設けるのです。それはまた天の果てから果てまで行きめぐる道を作りエルサレムにいたります。主の栄光が全世界に響き渡るのです。

この北海道は太陽であるキリストをお迎えする「幕屋」としての役割が与えられています。

義の太陽が走る走路を設けることは今回の祈りの祭典およびG工イトの為の祈りの集会を通じて主がなされたい目的のひとつです。その為に昨年の祈りの祭典で日の丸が持つ預言的意味が宣言され、その呪いが打ち砕かれる必要があったのです。


イザヤ書41章に戻るなら2節に、この方に「国々を渡し王たちを踏みにじらせ剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。」と書いています。

主はご自身の摂理の中で知らず知らずのうちに私たちをグ口ーバル・ゲートへの祈りに招き入れました。私たちの祈りの視野は北海道や日本全国だけでなく、世界で起こる出来事に関わるのです。そうです、確かに主は北海道でなされる祈りは世界の片隅のものではなく、世界の流れに影響を与えるものへとされているのです。


そして3節にあるように、その歩むべき道はまだ、誰も通ったことがない道です。主が私たちを導いてくださる戦略はユニークであり創造的なものなのです。ですから過去にどこかで起こったリバイバルやムーブメントは励ましや参考になりますが、私たちはそれらに限定されてはなりません。常識に縛られることなく主から聞いていく必要があるのです。


4節に「主こそ初めであり、また終わりとともにある。」あるように、これを成し遂げてくださる主は世の初めから世の終わりまで時間を越えて存在される方です。ということはそれはどういう意味なのでしょうか。主は私たちが向かっていく方向の最後を知っておられます。そして、それを見て喜んでおられます。私たちの勝利をすでに見ておられる方が私たちとともにおられるのです。

全能なる方、万軍の主がこれを成し遂げてくださるのです。


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