ユダヤ人を救った国・日本

 そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。(イザヤ書 59章19節)

ユダヤ人を救った日本人としてもっとも有名なのは杉原千畝です。彼はリトアニアの副領事の時代にユダヤ難民に日本通過ビザを与えることによって6000人の命を救いました。

一般的には彼の決断は日本政府の意向に反したものであったとされていますがそうとは言い切れません。当時の日本の政府は人種差別をしないことを国策としており、ナチスに同調せずユダヤ人に対しても多くの場面で救済の立場をとっていたからです。

一般的に言われているような杉原は身勝手な行動により左遷されたという事実はありませんし、それどころか彼は後に勲章を授与しております。
確かに日本政府は杉原が難民に対してビザの発給の許可を求めたときに難色をしめしましたが、それは常識に基づいての回答です。実際には、どうやら杉原がビザを発行するのを容認していたふしがあります。 当たり前の話ですがビザというものはその国に入国をするための最低条件であって、入国を保障するものではありません。

杉原ビザを持ちソ連極東部のウラジオストックにたどり着いた避難民がその後も脱出を続けることができたのは、ウラジオストック領事館の根井三郎の便宜があったからです。
根井三郎は、有効性が疑われている杉原ビザに対しての信用を与え、さらに紛失者にも再発行しました。 また、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給し、難民の救済にあたりました。

ウラジオストックを発った船が日本の鶴賀港についても、一定のお金を持ってなければ上陸許可が下りないはずでしたが、そこでも、別の役人によって便宜が図られました。
また、日本に滞在できる期間は10日間だけのはずだったのですが、外務大臣の松岡洋右の便宜で30日に延長されました。 この事実は大きな意味を持っております。なぜならこのユダヤ人の救済は、日本政府のお墨付きであったことを意味するからです。

杉原はビザ発行のために自分自身がリスクを負ったのは事実ですが、その発想は彼独自のものではなくユダヤ人を助けることは当時の日本全体の雰囲気だったことが次の出来事からもわかります。


杉原ビザの数年前に、ソ連領オトポールで立ち往生している数百人のユダヤ人難民を陸軍少将樋口季一郎が保護したのですが、松岡洋右と東条英機はその活動を支持しております。それに対してナチスドイツは日本政府に抗議をしましたが、政府は公式にその訴えを退けて「日本は人種差別をしない」という意向を表明しました。
つまり杉原千畝の行動にはすでに樋口季一郎という先人の功績があったからであり、日本政府全体の方向性でもあったのです。

敦賀市の博物館に展示されているように入国したユダヤ人は敦賀港において、神戸において、その他さまざまな場所で支援、援助を受けました。
また、よく知られているようにホーリネス教会の人々はユダヤ人を手厚く支援しました。彼らはユダヤ人に対する神の約束に目が開かれており、まだ建国されていなかったイスラエルの再興の為に熱心に祈っていたのです。


このように日本の官、民、教会といったさまざまな支援によってユダヤ人は国外に逃げることができたのです。
ナチスと敵対している国であるなら、ナチスの政策に反する行動をするのはたやすいでしょう。しかしナチスと同盟関係にありながらナチスの政策に同意せず、むしろ反対の行動をとるというのは、他のどの国よりもホロコーストに加担しなかったという意味で高い評価を与えられるべきなのです。