シャデラク・メシャク・アベデネゴは死を恐れず偶像を拝みませんでした。
強い信仰を持ったクリスチャンであっても、自分がそのような場面に立たされた時には、自分はどのように振舞えるだろうかなどと思い巡らしたことがあるかもしれません。
そのような強固な種類の迫害を予想している人は、近い将来において起こるといわれていた迫害が起こらないので拍子抜けするかも知れません。
それもそのはずです。将来私達を待ち受けている迫害はそのような白か黒かの決断を迫る鞭による強硬な迫害とは限らず、考え方次第ではいくらでも逃れれる種類のものだからです。
たとえば、同性愛が罪であると主張する牧師が投獄されるような時代が来たとしても、今日すでにそうであるように、それに表立って反対し無い限り特に問題はないでしょう。
つまり厳密に聖書の真理に立とうとするなら、牧師は迫害と飢えを覚悟しなければならない厳しい時代であっても、解釈や神学しだいでは、あるいは賢く振舞えば迫害に会うことが無いのです。
おそらく多数を占める聖書の教師は「獣の刻印」の意味は「マイクロチップを受けることではない」と考えているようです。
もちろんマイクロチップそのものは身体に埋め込むクレジットカードのようなもので、それらはシステムに過ぎず、クレジットカードや携帯電話が悪ではないのと同じぐらい悪いものではないでしょう。
しかし、そのシステムを用いて人々が支配されるのです。
すべて電子マネー化されてマイクロチップを受けなければ「ものの売り買いが出来ない」ような生死に関わる事態になったとしても、それが「問題ないと考える人」にとって何も苦難は生じません。
つまり、苦難を通るかどうかはその人の信念しだというわけですが、ここで生じる問題はその苦難はキリストの体の中で重荷を負いあい共有できないということです。
古い時代には、安全な場所にいるクリスチャンであっても、明日はわが身と案じて迫害に耐えているクリスチャンと心をともにしておりました。
しかし、これからの時代はそれとはことなり迫害に耐えているクリスチャンを見たとしても、「どうしてわざわざ苦難を招くのか」といぶかしがような事態が起こります。
つまりキリストの体が心をひとつにして苦難に耐えることができない分裂した時代となるのです。
その分裂は、これまでのカテゴリーであった、聖霊派や福音派、といったわけ方はできません。