南京大虐殺の真実



南京大虐殺(前半):南京大虐殺という偽り

中国は日本が1937年に南京において三十万人虐殺したと主張しています。
しかし、日本軍による虐殺などなかったことは状況的に明らかです。というのも、当時の南京は日本軍が情報を遮断させれるような閉鎖された場所ではなく、外国の報道陣も大勢いた場所でした。もし虐殺が本当だったら大ニュースになっていたはずです。しかし大虐殺についてはまったくといいほど報道されておりませんでした。
東京裁判でも結局、大虐殺を見たという直接証言は得られませんでした。


実際にあったのは中国人による中国人虐殺

南京大虐殺というと平和に暮らしていた中国人を突然日本軍が侵略してきて虐殺したようなイメージを多くの人が持っていますが、当時の中国は清政府(Qing dynasty)が倒れた後、無政府の内乱状態で、その状況は複雑でした。日本人による虐殺は捏造ですが、実は南京では中国人による中国人に対する虐殺事件が少なくとも四度起こっているのです。(さらに詳しく見る)
特に4度目の中国共産党軍による虐殺は容赦がないものでした。
ですから、人々が持っている南京における大虐殺の記憶や写真というものは共産党による虐殺のものなのでしょう。


解放者であった日本人

中国人による虐殺事件が何度もあったことから、南京の住民にとって日本軍は解放者でした。
それゆえ南京の住民に日本軍は歓迎されましたし、そのような写真はたくさんあります。
逆に、日本が住民を虐殺した証拠とされているほとんどが捏造であったり、別の場所で別の人による(中国人が中国人に対する)虐殺の写真であることが今日明らかにされております。

繰り返して書きます。確かに南京で大虐殺はありましたがそれは1949年に中国共産党軍が行った事件なのです。
それが捏造であることは毛沢東(Mao Zedong)は生涯一度も日本軍が行ったとされる南京大虐殺について言及していないことにも現れています。



南京大虐殺(後半):四度あった南京事件

中国共産党が主張する日本軍が行ったとされるいわゆる南京大虐殺(Nanking Massacre)は、ねつ造ですが、実際には中国人による中国人に対する虐殺事件が四度ほど起こっています。この記事では3番目と4番目について解説します。

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)

  袁世凱派の張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して1ヶ月に渡り虐殺、強姦、略奪を行い数千人の死者を出しました。

2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)

  国民党の軍が南京に入場後虐殺、強姦、略奪を行いました。この事件では外国人領事関係者(日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名)にも死者が出ました。

3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)

南京に陣取った国民党軍が城内で行った虐殺、強姦、略奪事件。

4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)

  中共軍が南京を制圧し、虐殺、強姦、略奪を行った事件。10万人以上の死者がありました。



予備知識 中国の当時の主な勢力について。

当時の中国は清王朝 崩壊後、中国は無政府状態で、分裂し、殺しあっている状態で主要な2つのグループは蒋介石が率いる国民党 (このグループが現在の台湾政府)と毛沢東が率いる中国共産党でした。

また、終戦時には汪兆銘が率いる南京政府がありました。


第三次南京事件 昭和12(1937)年

日本は国民党軍との軍事衝突を避けるために忍耐の限りを尽くしていましたが「通州事件」「尼港事件」などのような多くの挑発行動により、結果的にシナ事変が勃発しました。

敗走した蒋介石率いる国民党軍の兵士は「南京」に逃げ込み南京市民を虐殺し始め、多くの南京市民が逃げ出しました。

数週間後の12月4日、日本軍が到着し、国民党軍は再び敗走します。

日本軍は城内の平穏を確保した後、12月17日に陸海軍合同で南京城入城式典を行います。

当日は南京の避難民たちにも、お菓子や煙草が支給され、町中が笑顔と万歳の声にあふれました。

日本軍の入城によって治安が回復した南京城(City Wall of Nanjing)には、もともとそこに住んでいて城外に避難していた避難民たちが続々と帰って来ています。そうして帰還した支那人たちに対し、日本軍は無償で医療を施し、食事を与え、子供達にはお菓子まで配っています。


第四次南京事件

昭和24(1949)年

1945年8月15日、日本は太平洋戦争(Pacific War)に敗戦しました。

日本に対抗するために米英は軍事物資等の豊富な援助を蒋介石軍に与えていましたが、戦争が終われば用済みで、終戦とともに米英からの援助物資が途絶えてしまいました。

一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は日本軍から得た銃器や弾薬を大量に手にし、それをまるごと毛沢東率いる支那共産党軍に引き渡します。

蒋介石軍と毛沢東軍の間には圧倒的な物資の差が生じ、各地で毛沢東側が圧勝します。

当時の南京には汪兆銘率いる南京政府があり、1937年からこの時まで豊かで平穏な社会を維持していましたが、蒋介石軍は南京に逃げこみ、物資を略奪し、多くの人が殺されました。

南京にとっての本当の悲劇はその後で、国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度は支那共産党軍がやってきました。国民党軍は逃げました。

共産党軍が城内に乱入しました。彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮しました。

この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。


時期的に一番新しく、また虐殺の規模が大きかったことから、一般に記憶されている南京大虐殺とはこの第四次南京事件ことでしょう。