2008年イスラエルの祈りの祭典レポート

2008年10月1日〜8日

1.始まり

    2006年大阪での祈りの祭典参加後、大阪城にて伊藤信行氏とメリンダ夫妻に出会う。角笛を吹く不思議な女性メリンダ。彼女と挨拶を交わし、すぐさま親しく話をしていくうちに彼女が突然、、

「イスラエルにお琴を持っていく人がいたら。。。」

と話し出す。私の頭の中は??マークがいっぱいであった。しかし、勇気を持って「私は琴を弾きますよ」と彼女に話すとメリンダは私の足に手を置き、預言の様に祈りだした。

イスラエルに行く事など皆目ビジョンにない私は、素直に受け取れなかったが、この出会いの不思議さだけは受け止めた。(確かに大きな主の御手を感じる)


2.2008年に向けて

主は前から私に置かれていた計画を始められた。(シンガポールでの主からの言葉に従ったために主は私を使い始められたと思う)

相変わらず、琴のミニストリーに平安がない中、2006年冬カンボジア行きを決定する。主は私が琴のミニストリーをやめてもいいですか?と聞くと「琴は賛美」と応えられた。それで気持ちの全てを吹っ切って主が示されるままに老人施設や子供達の所へ出て行き、精一杯琴を弾き、福音を述べ伝えていた。でも、このままではいけないといつも感じていた。そんな時のカンボジアアウトリーチであった。

このアウトリーチで私は琴を持っていくことになった。海外でしかも一人で琴を演奏する事に不安がないわけではなかったが、牧師の覆いの元であることと、何よりもチームの一員である事や共に演奏するキーボード奏者相田朝美姉を与えられた事が心の支えとなった。主の大きな愛に感謝。(カンボジアから帰国後新しいミニストリー「チームカレブ」が始まった)


3.いつイスラエルへ?

 2007年の北海道の祈りの祭典終了後、2008年はサ三ット開催時期に合わせて7月に開催する事が決定した。この時、頭の中にもしかしたら来年はイスラエルに行けるかもしれないという思いがかすめた。2006年も2007年もイスラエルの祈りの祭典に北海道での祭典開催時期が重なり、事務局としては行くのが難しかった。3ヶ月時期がずれるのはもしかしたら?という期待感があった。でもどうやって琴を持っていくのか?


4.しるし

 2008年の北海道での祭典は準備期間が短く、自分の思い等入れる暇がなかった。オープニングで琴で賛美するというのも自分からは決して言わないと決めていた。(前年のしんどさもあったが待つという気持ちが与えられていたと思う)

そうしたら弾くことになり、演奏者も曲も自然に与えられてしまった。

 7月3日開催初日、大阪から来られた大久保師から突然のように「琴を持ってイスラエルに行きますか」と声をかけられる。(オープニングに感動された師が声をかけられたと思ったがそうではなかったようだ。)

 しるしを求めていた私は「はい」と何も考えずに答えた。


5.準備・妨げ

 大久保師は約束して帰られたが、なかなか返事が来ない。ヘス師はどう応えられたのか?琴は持って行けないのかなど心配事が募る。

 結局大久保師からのメールが何のミスか届かなかっただけでもう行く事は決定されていた。

 琴の運搬・演奏者などが思いのほか大変であった。でもこれは全て妨げ。行く日が間近に迫って大きく指を火傷したこと、共に行くはずだった演奏者がキャンセルした事もこのミニストリーの大きさを思わせる。主は「私に来なさい」と言われたのだからただ主に任せるばかりの気持ちを持てばいいのに心配ばかりしていた。

 「ひとりですがいいですか?」と大久保師に最終確認をする。あとから聞いた事だが、師もこの時、大丈夫だろうかと思ったらしい。会場の広さを知っておられる師はできるだけ多くの琴奏者を連れて行きたかったのだろう。しかし、師は「行きましょう」と強く言われた。「今年、日本が日出国である事を宣言します。」と力強く語られた師に感動し、不安が消えた。


6.出発

 前日9月30日、関西方面に台風が近づいていた。たいした事ないだろうと思っているとツアー会社の担当者から電話が入る。関空は飛ばないかもしれないので成田に変更できないかとの事。心が乱れる。変更にはお金も時間もかかる。すぐに執り成しの皆さんにメールし、祈りをお願いする。サタンの嫌がらせだとわかっていても不安になる。

 10月1日当日札幌は快晴。台風は温帯低気圧になって日本を去っていった。千歳からツアー担当者に連絡し、関空に飛ぶ。

早い時間の出発だが、西森師と余裕を持って関空に到着し、出発時間までレストランで時間を過ごす。午後9時30分過ぎ待ち合わせ場所に見知った顔を発見する。2年前に北海道を訪れたフィンランドの宣教師エーバさん。懐かしい再会である。徐々に参加者が集まり、琴を運んで中谷洋介君一家と大久保師が現れる。大阪からは他に村谷数枝さん、辻よしこさん、塩井淳子さんの全部で6人が参加。出発ゲートに行くと成田からの参加者小菅啓子さん、藤谷さん親子、静馬さん、笹川さんの5人と出会う。北海道組の2人を合わせて計13人の勇者が揃った。

ここでの心配は琴を乗せてもらえるかということ。無事大久保師の荷物としてOKが出た。しかも運賃は無料。(喜んだのはつかの間。出発間際にやはり運賃が掛かりますとのこと。5千円程度の運賃がかかった)


7.イスラエル〜琴賛美〜

 10月2日朝4時30分タシュケントに到着。テルアビブ行きに乗り換えて一路イスラエルに向かう。10時30分テルアビブに到着。なかなか琴が出てこない。不安な思いを抑えて待つと壊れないようにと他の場所から運び出されてきた。出口で待つガイドのバラさんと出会ってエルサレムに向かう。

 バラさんの本名は榊原さん。日本人でクリスチャンである。長年イスラエルに住み、ガイドの仕事を続けている。ちょっと変わったおじさんという雰囲気だが、どんなガイドをして下さるのか楽しみである。

 エルサレムに着いたらホテルに入って着物に着替え琴の準備もして祈りの祭典の会場ラマダラッケルホテルに行き、アジアの時間に参加する、というのが大久保先生の計画であった。しかし、ホテルには早い時間のチェックインはできないとのこと。計画を変更する。会場に直行し、バスの中で着物に着替える。浴衣でよかったとつくづく思う。10人の女性が一斉にバスの中でスーツケースを開き、浴衣と帯、下駄などを出して着替える。私はその上琴も出さなければならない。こんな時に本当に頼りになったのが西森師である。私が着替え中に琴をケースから出して下さる。さすがに柱をはめ、チューニングして頂くのは無理。早々に着替えて琴を持ち、会場に向かう。会場のスタッフの話だと2時過ぎから日本人の時間が始まるらしい。もう時間がない。あせる気持ちを抑えて会場内の隅で琴のセッティングを始める。(こんなこともあろうかと日本で琴の弦に印を付けてきていた。)ざっとチューニングで音を取り、譜面台に楽譜をセットする。問題はここで爪を付けること。イスラエルの衛生状態はどうなのか。指をなめって爪をはめておなかを壊さないかと心配がよぎる。「主よ、守ってください」と祈って爪をはめた。

 歌を合わせる時間もなく、雰囲気で歌ってもらうしかない。

 落ち着くと北朝鮮脱北者の女性の証が始まっていた。韓国に逃げて来て救われた女性。主がどこの国からもご自分の民を集めておられると思う。大久保師が呼ばれてステージに上がり、この女性のために祈る。そのあと、少し時間があって私たちの番。

 大久保師はNRAの後ろ盾のもと、予定通り日出国日本(イスラエルから見て最東端に位置する国)に日が昇り始めたことを宣言する。私達は日本の民族衣装を着て日本に古くからある楽器「琴」で賛美します。と大久保師。賛美は「アメージンググレイス」と「輝く日を仰ぐとき」そしてイスラエルの国歌でもある「黄金のエルサレム」を演奏することを告げる。「黄金のエルサレム」と言ったとたん、トム・ヘス師はじめ多くの参加者が立ち上がった。所謂スタンディングオーベイション?と思ってドキドキする。皆、手を上げて賛美したようだ。アメージングに入り。最初はそろそろと歌が始まったが、何と麗しい声で歌う姉妹が用意されていた。主に感謝!!輝く日を仰ぐときも素晴らしい声でしっかり歌ってくださった。本当に主は備えられる方である。

 何だか少しバタバタではあったが、琴で賛美せよと言われた主に応えることができた時であった。

 その後、このアジアタイムを多くのアジアの方々と共にし、マタイ師とも再会し、感動のうちに一度会場を出る。

 以下、大久保師の言葉

*神様の御心ならツアーの人数15名を集めてください。と祈ったがツアーは13名であった。しかし、旅行会社はツアーを進めてくれた。

  ただ、13名だと宣言はできませんね?と神に祈り求めたら何と会場には伊藤夫妻とカナダからの日本人、沖縄からのスタッフとして参加している日本人がいた。ツアーの中のフィンランド人と伊藤夫妻の妻はフィリピン人。その二人を除くと大久保師+15人となった。

*使徒17章から神は国々に言語を与え、文化を与えたとある。だから日本人として民族衣装を着て日本に与えられている琴で演奏する事が必要であった。

 *神様は日本を創生の始めから日本を今の場所に置かれた。東に場所に。(現在千島などがロシアに所属しているのは神様が造られた日本の位置の中から出ているのでこの場所が日本に戻ることが大切と大久保師が語る。)

 *今回のこの日本人の参加はリバイバルのなったとき、あの時が起点であったと後から分かることになる。⇒この時歴史が動いたと言える(大久保師が力強く言われた)


8.祈りの祭典集会・祈りの塔(仮庵の祭りの時期に2週間行われる)

 集会は朝9時から夜10時まで行われ、各国からの報告・賛美・祈りを続ける。祈りの塔は終日、ホールとは別の会場で行われている。門ごとに時間が設定されていて日本を始めアジアの時間は東の門=獅子(ライオン)の門と言われる時間朝4時から6時までの2時間に当たっている。今回はこの祭典にパキスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・イラン・イラクも参加。韓国は50人、中国からは200人も集まった。日本人は15名の参加。(4年前には大久保師と1、2名。昨年は4名の参加だった)来年はどれだけの日本人が参加するか。


 10月3日:日本人がリードするとき。朝3時に起床し、3時半にホテルからタクシーに乗り、数人(10人くらいか)が会場に向かう。

 会場にはすでに伊藤さん夫妻がいて賛美の準備をしようとしていた。チームの中には楽器をする者がいない。伊藤さんが賛美を決め、ギターを持って賛美のリードをする。1曲目は中国語にもなっていて会場の台湾の方々も共に歌う事ができる。中国との和解と一致の時となり、会場中が抱き合い、祈りあって1つとなる。感動的な時間であった。台湾の姉妹の証:夢の中で神様から鍵を渡される。それを現実として受け取り、実際にできた鍵を趙牧師から大久保師に渡される。これはダビデの鍵だと言う。(大久保師は主からすでにこの事を預言されていてそれが実現したときであった)

 ルツ記:ナオミ、ルツ、ボアズの関係

 韓国チームからの発信もあった。去年は5人の参加であったが今年は50人が参加した。韓国=イスラエル直行便ができたそうだ。

 10月4日:台湾チームのリード。黙示録7章、エゼキエル37章、ゼカリア8章からのメッセージのあと、趙先生によって預言的行動がなされる。日本、中国、台湾、韓国の4カ国が横1列に並びゲートを出てゲートに戻って来る。最後にメシアニックジューのユダヤ人牧師の元に行き、ユダヤを祝福する。(私も牧師夫人をハグした)

 10月5日:4日の夜10時からの徹夜祈祷会。大久保師など数人は朝2時から参加。私とエーバさんはいつも通り4時からの参加。会場の大ホールで合流し、いつもの祈りの塔の部屋に向かうがこの日は別スケジュールになっていて祈りの塔での祈り会はやっていない。メリンダが用意したという祈りのタワー(屋上の小部屋)に向かう。ここにはすでに台湾の女性が祈っていてしばらく共に祈ったが、私たちに部屋を譲って下さった。

 この時に見た幻:神が聖なる山から石を切り出される。この石は神の神殿を建てるために必要な石でどれも1つとして同じ石はない(大きさ、形は別)。それぞれは神の入念な計画のもとに用意されたものでしっかりと組み合わされて神殿を建てあげる。イエス・キリストという礎(土台)の上に建てられて崩れる事はない。

 

 今までよりずっと祈りに専念出来たことを感謝。メッセージも賛美もなかったかもしれない。

 10月6日:アモス書3章4節、7節〜8節、創世記49章8節〜10節、Uサムエル7章11節〜12節、アモス9章11節、詩篇2章1節、6節〜9節、9章6節〜7節、

 1:エペソ1章22節、2:創世記41章、3:Tサムエル2章(ハンナの祈り)

 少しメッセージが長すぎると感じる。

 *祈りの塔全体で感じた事は2時間と言う枠の中で賛美〜メッセージ〜祈りという流れになっているようだが、全般的にメッセージが長いと思う。各国からの報告も含めているので1時間近くメッセージに費やすチームもある。賛美の時間を差し引くと本格的に祈っているのは30分弱の感がある。5日は特別な祈りの時間であったので賛美と祈りが中心であった。メッセージ(報告)の時間がなく、祈りに集中する事ができた。

 *4回の祈りの塔参加と2回の祈りの祭典集会参加ができた。

  このあとガリラヤ湖に移ってからの湖畔での祈りの時を入れると毎朝早天祈祷ができたことになる。T日として苦痛だった事がなく、すんなり目覚め、祈りに集中できたことは日本とイスラエルの天の開き方の違いか、旅行という特別なときだったからか。


9.観光(食事も)

 祈りの祭典に平行して観光も十分堪能した。

 10月2日:昼食をロッジ風の場所で頂く。イスラエルの水はきれいなのか少し心配。外にはかわいい猫たち。(家に置いてきた猫を思い出す)

夜はホテルで食事。たくさんのチーズに驚く。多分10種類以上か。コレステロール値が高い私は控えめにしても取り過ぎだろう。そしてトマト、ズッキーニ、ナス、ニンジン、キャベツ、ピーマンなどの野菜の多さ。思った以上に水も問題なく、コーヒーも頂ける。

焼いた野菜や生の野菜と鶏肉、牛肉のソテ―がある。もちろんパン。パスタは少しあったかもしれない。

10月3日:朝6時30分ホテルで朝食。昨夜の食事とほぼ同じだが朝食スタイルになっている。またチーズのトッピングも変化している。ウェイターのおじさんはとても親切である。

8時30分ホテルから観光に出発。祈りの祭典に参加される大久保師と西森師を祭典会場まで送り届ける。その後、バスはゲッセマネの園に向かう。ゲッセマネはイエス様が血の汗を流し、祈られた場所。「父よ御心ならばこの杯を〜」と祈られるイエス様のレリーフがある。園からエルサレムの街が望める。ソロモン王が建てた神殿の後のモスクの黄金のドームが見える。そして様々な門がある。祈りの塔で祈る門にも繋がる実際の門だ。

バラさんのガイドは全て聖書を読みながら行われていて聖書が現実と繋がる。観光をしながら聖書の学びをしているようだ。話しているうちに園から歩いてシロアムの池の方に行こうということになる。距離はどのくらいあるのか分からないがガイドさんはよく知っているのだろう。任せて歩く事とする。しかし思った以上の強行軍だったと思う。

(元々足の弱い私。行く前に気づいて湿布を持って来てよかった)

この日の観光箇所はカヤパの家、イエス様が処刑された場所(処刑場)

園の墓:いわゆる墓跡にはカトリックの教会が建っていて荘厳な感じ。観光客がひしめいていて墓穴にもたくさんの人がいる。多分イエス様の遺体が置かれていた場所(?)には大勢の観光客が跪き、口付けしている方もいる。バラさんはこの場所以外にも墓があると言う。そこは1894年に発見された所でこここそアリマタヤのヨセフの墓跡であるとプロテスタントが信じ、この場所が今では本当の墓跡と思われている。私自身もこの場所の方が落ち着き、きっとこちらが本当の場所と信じられる。1人で来てもゆっくりと祈ることのできる場所のように思われる。園のいろいろな場所では礼拝や賛美、学びがされていた。

鶏鳴教会(ペテロが三度主を否んだ所に建てられた教会)にも観光した。

この日の昼食は日本料理店「さくら」で天婦羅を頂く。日本のものとは違って大雑把な味。おすしも出ているようだ。本当は中華料理を食べに行くはずだったが、混んでいてこの料理店となったとバラさん。


10月4日(土)ヴィアドロローサ(十字架の道のり)に行く。私がぜひとも行きたかった場所の1つ。門から入って行くとそこは狭い路地で周りには露店が立ち並ぶ。この道をイエス様が通ったのか。と思われるほどの場所。人も多く、すりに気をつけてとガイドのバラさんが言うほどの混雑。ゆっくりと主の痛みや悲しみに浸るような場所ではなかった。主が倒れた場所やその顔を拭かれた場所などもあった。バラさん曰く、十字架刑は市中引き回しの部分もあり、十字架を担いだイエス様を大勢が嘲笑しながら見たのであろうということでみるならこの場所であった事もよくわかるでしょう。なるほどと思う。このあとアラブ料理を食べに行く。おなかの調子がなんとなく思わしくなかったがどうもイスラエルはカンボジアと違って水には問題がなさそう。気分的なものであると思う。ここで出されたレモン水も思い切って頂く。パンの中にサラダやいろいろなものをはさんで食べる。これだけでおなか一杯。次にシシカバブーが出てくるがほとんど食べられない。

昼食後はベツレヘムへ。

主が生まれた場所にも教会がある。本当の飼い葉おけ(日本で見るものとは違う石造りのもの)も見る。

ベツレヘムにはバラさん行きつけの御土産やさんがあって初めて買い物らしい買い物をする。でも、本当に欲しいスカーフやアノイティングオイルがない。道端で売っていたバッグもない。。バラさんに言うとまだ売っている場所はあるからとのこと。明日に期待する。(いつもお土産には悩まされる)

ベツレヘムを出て。

エリサベツがマリアを訪れた教会。ナザレはヨセフさんの住んでいた家もある。ここの絵ではヨセフさんの最後の時、イエス様とマリアさんが見守っている絵。マリアさんが若すぎるとみんな。

この日、参加者の1人笹川さんが持病(癌の手術をしていた)発病。どこかの病院を!と思うがこの日は安息日。きっと病院探しは大変であろう。大久保師と西森師はしばらく彼女と共にホテルに留まる事となった。

観光を終えてホテルに戻るとかなり回復されていた。


10月5日(日)

この日は大久保師、西森師共に祭典集会には参加せず、皆と一緒に観光する。(笹川さんも回復し参加する)

ナザレではヨセフさんの最後の時の絵を見る。寄り従うイエス様とマリアさん。マリアさんが若すぎるとみんな。

バプテスマのヨハネが首をはねられたという教会に行く途中で欲しかったバッグ発見。

はまっていると富士山さんたちも来て益々はまる。皆はさっさと教会へ。富士山さんのお母さんが途中で待っていてくれて山を登り、教会で皆に追いつく。

青空市で昼食を買いながら食べる。私はおなかのことを考えて遠慮。皆はパンにいろいろなものを詰めて食べ始める。気遣った姉妹たちから少しずつ頂く。ジュースもざくろやバナナなどとっても健康的なジュース。でも、おなかのことを考えて私は作ってもらわない。ある所ではドライフルーツを売っている。なぜか何人かがはまって買う。私もここでイチジクを購入する。(日本で食べたらなかなかおいしい)同室のエーバちゃんはかなりはまって大量のドライフルーツを購入。どうやらクリスマスに作るケーキの材料らしい。一度そこを出てからまた戻ってさらに追加購入してくるほど。重たそうだ。。

夕方:メシアニックジューの教会礼拝に参加するため、バスを近くで停めていただき、

教会のあるビルへと向かう。

多分ここのはずと西森師が探し回る中。メシアニックジューと思われる青年が登場。話をするとやはりそうだった。何と礼拝は朝だけで夕拝は休止して祈りの祭典参加すると言う。この青年はエチオピアに住んでいたユダヤ人でエチオピアにはユダヤ人コミュニティがありそこから全員がイスラエルに帰還したと言う。私達はとりあえずホテルに帰る事とし、彼にホテルまで連れて行ってもらうこととなる。道々歩く中、何とかホテルに帰る方向がわかるので買い物をしていきたいというグループとゆっくり帰るグループ、早々に帰るグループの3つに分かれる。私達はゆっくりグループ。ホテルの近くのスーパーで買い物をすることになる。西森師も一緒。女性たちに囲まれて師も一緒に家族、教会への土産を買い始める。何が名産か分からない私達はエーバちゃんにハロバという毎朝朝食に出ていたお菓子を探してもらう。すごい勢いで買いあさる。レジの女性から「日本人はハロバが好きなの?」と不思議がられるほど。大体のお土産がそろって満足。あとはスカーフとオイルを買うだけ。

夜の集会は疲れたのでパス。西森師にアジアタイムのDVD(前日売り切れてしまっていた。人気があるらしい)購入を頼む。早めにベッドに入ると西森師から電話。大久保師が疲れてしまったので帰ってきたとの事。DVDは無事に買いました。朝早天の時に教えてくださってもOKなのに〜と思いつつ寝る。


10月6日(日)

この日はエルサレムを去る日。最後の早天に出る。

その後いつものようにホテルで食事をし、バスでティベリアに向かう。

向かう途中、海抜0メートル地点でらくだと写真撮影。この時に変わった指輪を売っていたが迷って買わなかったことが今、少し悔やまれる。

ダビデの滝:ダビデはサウル王から逃れていろいろな所に逃げていったのか。ここはそんな事を思わせる山。入り口付近にいる小動物達に出迎えられて気持ちは軽く山登りを始める。私は元々山登りは苦手だが、15分程度と言われ、それに二度と来ないかもしれない所を休んでなどいられない。暑い日差しの中、登っても登ってもたどり着かない。。というほどではなかったけれど、結構きつかった。着いた先には滝壺があってそこで泳ぐこともできる。(多分私たちより先にいたグループは泳いでいたと思う)ダビデはこんな所まで逃げてきたのかと思うと同時に、主がこんな安らぎの場所を与えてくださっていたのだな〜とも思う。やはり主は隠れ場を用意していて下さるのだ。

次はいよいよ死海体験!その前にアハヴァの工場兼直販売所へ向かう。前に由佳ちゃんから石鹸をもらっていて気になったところ。死海の泥パックも欲しかったので購入。値段は結構するけれど石鹸をエーバちゃんと一緒に買った。ここで買い物をすると死海の海に入る入場券(?)がただになるという。今、死海には温泉もあると聞いて日本人である私は喜びが。。。

小屋のようなシャワールームで水着に着替えて死海に向かう。死海に入り浮く。一緒に入った笹川さんが立つときに怖くなってバシャバシャ!近くにいた監視員さんに怒られてしまった。多分目に入るともう目が開けられないくらい痛いし、傷にも滲みる。なめてみると苦くて辛い。相当の塩分だ。

浮いていると若いご夫婦(?)から声をかけられる。「どこから?」「日本です」というとにっこり。「シャローム」「ナイストウミートユウ」と挨拶する。

死海から上がって温泉に向かう。この温泉も死海だから浮く。西森先生はバラさんと楽しそうに話ながら温泉に浮いている。私は少し怖くてみんなに支えながら浮いた。死海よりは浮くのが大変かもしれない。外にあるシャワーを浴びて服に着替える。普通の海だと何となくべた付くけれど死海はさっぱりとしている。

その後はお昼。今までに行ったところよりちょっと汚い(?)レストランでバイキング。かなり混んでいて騒然とし落ち着かない雰囲気。食事はエルサレムのようにおいしいとはいえない。

この日の宿泊はキブツ。

ガリラヤ湖畔にあってロッジに泊まる。とっても素敵。部屋に入るとエーバちゃんはとても気に入ってソファに横になってしまう。私はベッドルームでいろいろ。。

中央にあるレストランへ行き、夕食。ここの食事も私にはちょっと。なんとなくおおざっぱな味。食事をしながら大久保師と今回の旅のことをいろいろ話す。本当に今回は全て主のご計画。後になってからきっとすごいことの始まりなのだと実感する。

明日の朝は最後の早天祈祷。


4時、ロッジの外に出ると隣の富士山さんから6時まで自由に湖畔で祈るとのこと。私はロッジの前にイスに腰掛けて祈る。エーバちゃんは歩いてくると言う。薄暗がりではそれぞれに祈っている姿。西森先生も大久保先生も湖畔に近いところで祈っている。

5時過ぎからそろそろ日が昇るのではないかと日の見える方向に歩き始める。でも、この日は曇り。そして私たちのいる場所からは日が昇るのは見えない。由佳ちゃんは確か泊まった所で日が昇るところを写真に撮ったと言う。きっと別のホテルだったのだろう。それぞれにこのイスラエルで主がなさりたいこと、見せたいことは別とあらためて思う。皆全然別の召し。私がここで主から受け取ったものは何か。それはまだ後のこと。

6時、皆集まってイスに座り湖畔で反省会。

一人一人今回の旅を振り返る。私は大久保先生に与えられた勇者達を思った。この勇者達は一人一人召しが違う。今回はここに集められたが、これから日本に戻り自分に与えられた場所で主と共に働く。そしてこのイスラエルは皆のふるさと。

反省会の後は食事。エーバちゃんはここで懐かしい人と会った。

さあ、これからはガリラヤ湖上遊覧。

その前にショップで最後の買い物。念願のショールとアノインティングオイルを買う。それにあそこで買えなかった指輪への思いがあってどうしても指輪を買ってしまった。

ショールもオイルも皆これでもかというくらいに買っていた。

そして遊覧船へ。帰ってきた遊覧船の乗車客達と挨拶を交わしながら船に向かう。船着き場は何と4メートルも水位が下がってタイヤが丸見え。

船に乗るとイスラエルの旗に会わせて日本の旗が揚がる。そして国歌も流れる。私たちは「君が代」ではなく「日出ずる国は」と歌う。船上でタイタニックをまねたり、かかっているCDに合わせて盆踊りを踊ってしまう。楽しい一時だ。

まだまだ観光は続く。ペテロの家(姑が癒された所)。山上の垂訓教会。ペテロの召命教会では銅像にまねて皆、大久保師から召命を受ける。(本当にダビデの勇士になったような気がする)

昼食はかの有名な「ペテロの魚」前菜が結構重たくて魚が出てきたときはおなかが一杯。しかもすごく大きい魚。鯉か鮒のような多分淡水魚だ。私はやっぱり苦手。お醤油をかけてみるが、これよりも塩の方がおいしい。

今日はイスラエルを発ってタシュケントヘ向かうと言うのにかなりハードに最後の観光を終える。


10.帰国

テルアビブでは思った通り13名中11名がスーツケースを開ける羽目になった。私は琴も開けることに。ガムテープをがっちり貼ったのに。。テープも切られそうになり大慌てで「切らないで!」とジェスチャー。

開けてもそれほど丹念に見るわけではない。嫌がらせ??

バラさんのお陰で本当に助かる。が、ここでまたしてもようくん。。何と入るときに税関で帰りのチケットを取られていた。しかも数枝ちゃんは必要がないと思って捨てたと言う。二人は一緒に帰れないか。。30ドルで新しいチケットをもらって帰ることができた。

テルアビブの空港にはデューティフリーはあるのにブランドものがない!

あるのは宝石とタバコと香水、お酒。エーバちゃんはお菓子を買っているようだけれど。

カンボジアアウトリーチの時でさえ、最後はブランドものを買ってきていた。今回も何かあったら。。と思っていたのに何もない。(多分、敏ちゃんは大喜び)

まだドルが余っているのに何も買わずにイスラエルを後にする。

タシュケントのDFSで、最後に香水を買う。ドルを使い切ってしまいたかった。でも、残った。

飛行機内で売っているのも香水かたばこかお酒。こんな基本的はものしかないなんて。

そして関空。

ようくんの家族が迎えに来てくれていた。お琴も無事に車に乗せて一路「主イエスキリスト教会」へ。

大久保師は「スパへ行きましょう」と言う。もう夜中の12時なのに、なんて元気なのか。西森師と二人で断るが断り切れなかった。

副牧師先生の運転で30分くらいかけてスパに向かう。大きなスパ。いろいろなお風呂があるという。

まずは腹ごしらえとこんな夜中にラーメンを食べる。男と女に別れていざお風呂へ。

靴下をぬいでびっくり!左足がまるで象の足になっている。イスラエルに居たときから少しずつ腫れてきていて湿布を貼っていたが最後の飛行機できっと腫れ上がったのだ。

大久保師に見せて暖かくしたり冷やしたり。檜風呂や岩盤風呂、ローマ風呂などに二人で入る。大久保師の背中を流す。あまりの綺麗さに驚く。とても60才の肌とは思えない。お風呂から上がって大久保師からバーナルの化粧ミストとオリーブオイルを顔に付ける。とってもいいですね。と言うと明日このオリーブオイルをあげますよと言われる。

こんなに何でももらっちゃっていいのかしら。

午前3時を回っているが不思議と疲れは感じない。タクシーに乗って教会に戻る。

2階の母子室に宿泊。西森師は3階の会議室。母子室に行くと何と淳子ちゃんとさんが寝ている。家に戻らなかったのか。

とにかくそそくさとほとんど着替えもせずに用意された布団に入り込む。朝は4時から早天祈祷だというが、さすがにそれは無理。西森師は起きるのだろうか。と思いながら寝る。

朝方、声がする。西森師の声に聞こえる。やっぱり早天に出たのか〜と思いながらまた寝る。。

6時半過ぎに起きる。確か朝の礼拝が6時過ぎからだと言われたので歯を磨き、顔を洗って1階の礼拝堂に降りていくと数人のホームレスの方、数人の女性、そして副牧師先生のリードで礼拝が始まっていた。

ホームレスの方は全員男性だが、挨拶の時に握手をすると清潔感があった。彼らは必ずこの朝の礼拝に参加し、掃除と食事作りをする。礼拝に参加しないと食事は貰えない。

大久保師の毅然とした対応でホームレスの方々の社会復帰も可能になっているという。教会前にあるブルーシートから社会へ戻った方々もいるそうだ。

7時までの礼拝中、淳子ちゃんも2階の母子室から参加。辻さんは疲れて寝ているようだ。後で分かった事だが、西森師もお風呂のあと、パソコンでいろいろお仕事をされているうちに疲れて早天祈祷への参加もできなかったそうだ。夢の中で聞いた男性の声はホームレスの方の声だったのかもしれない。

ほとんど寝ていないにも関わらずさわやかな感じがする。礼拝後は母子室に戻り少しの時間姉妹たちと分かち合う。足の腫れは疲れではなく、虫刺されではないかと言う事になった。淳子ちゃんが祈ってくれる。彼女は今年救われたばかりとは思えない祈りの勇士だ。

朝食の準備が牧師室にできていると言う。3階にある牧師室にはすでに大久保師、西森師がいらした。今回初めて宮脇姉妹に会う。北海道の祈りの祭典以来、感動の再会である。祭典事務局をしてからの知り合いだがいつもメールや電話で親切に応対してくださる最高の姉妹。信仰においてもアドバイスをしてくださる。今回は琴の運搬の事で本当にお世話になった。感謝をこめて札幌から持ってきたお土産が頼んだ人の不注意でなくなってしまったのは残念だったが、イスラエルで購入したダビデの星ペンダントトップを彼女に渡す。(ともちゃんのお土産にかったのだけれどともちゃんごめんね)

朝食はたくさんのパンとヨーグルトにチーズ。なんだかイスラエルを思い出す。

大久保師から朝温泉で約束したオリーブオイルを頂く。これで本当に大久保師のような肌になるのか。。と思いつつ、好意をありがたく頂く。

25周年記念に作られたという旗やシール、DVDを頂き、札幌への旅立ちの私宅をする。

副牧師先生運転の車に乗り、関空へ向かう。大久保師とは来年の日本の祈りの祭典やイスラエルへの思いを語ったがどうなることか、神の御手の中だ。

関空からは西森師との2人旅。足の腫れのめにシップを買い、飛行機に乗る。

札幌はさほど寒くないが雨。西森師の車で千歳から札幌の師の自宅まで。そこには夫敏文が待っていてくれる。今回も送りから迎えまでしてくれるやさしい夫である。

家に帰ってからも足の腫れを心配し、病院に連れて行ってくれる。思った以上に腫れがひどく注射に飲み薬と塗り薬を頂き、3日は注射に通うようにと診断されてしまう。

カンボジアの時もそうだったが寿司好きの私のためにお鮨やさんに向かい、お土産を購入して家で頂く。

これで無事帰国。


11.その後のイスラエル

 10月17日の祈り会にてイスラエルの証。購入したDVDは長すぎるのでさとしにお願いして短めバージョンを作成。写真もたくさんの中からセレクトしてさとしが私の話に合わせてプロジェクター撮影をしてくれた。感謝!

 お琴はそうなるのか?

関空への車の中に大久保師から悲痛な電話。何でもクロネコは琴の運搬に12万円かかると言ったそうだ。それで間に合うなら飛行機に乗せてということだったらしい。が、もう車はほとんど関空に着くところ。宮脇姉妹に取り合えず札幌に帰ってから話しましょうということになった。

いろいろ調べたがなかなか安く送れないということ。札幌の琴屋さんも関西から送るのはできないという。福山通運なら着払いでなんとかなるかもしれないということだが。。

ここで来年の祈りの祭典が名古屋で世界大会として行われることが決定した。札幌ではやらない。。では北海道から名古屋に参加しましょうという雰囲気の中、ではそちらの大会で琴の演奏をしましょうか?と大久保師と話し、決定ではないが、今回は大久保師の教会倉庫に来年までお琴を預けることになってしまった。イスラエルに置いてきてもいいと思った琴だが、まさか大阪に置いておく事になるとは。

果たして来年琴を弾くことが神の御心かどうかわからないが、どうもより子姉はやる気があるらしい。

私は今回イスラエルで弾いた場所がオリーブ山かどうかが定かでなく、もしオリーブ山でなければやはりもう一度(もしくは住んで)イスラエルで琴をダビデのようにオリーブ山でかき鳴らしたい。その気持ちがある。

イスラエルで観光した時の思いよりも帰ってきてからの方が大きい。まるで故郷を思い起こすようにイスラエルを思い出す。聖書を読むと本当にまるで目に浮かぶかのように聖書が立体的になる。


来年はどうなるのか。

神にしかわからない。文化の購いのタンバリンチームがイスラエルに行く話が持ち上がっている。また、日本からイスラエルにアジア、インド諸国を通り、多分シルクロードのように帰っていく計画もあるらしい。

わたしのビジョンは購いチームがこの祭典に参加し、タンバリン、琴、日舞、また様々な日本の楽器で主を賛美すること。

チームカレブをオリーブ山に連れて行き、そこで執り成しの祈りをすること。


2008年11月14日主の御手に委ねて

11月16日(日)朝の夢

イスラエルレポートを仕上げ、今年最後のチームカレブコンサートの練習を開始し始めている。

今回は琴のメンバー石川美香姉の体調不良でICFからの琴奏者は私だけになった。(彼女が今回体調を崩したのはイスラエル行きが閉ざされた時からだが、このチームカレブのミニストリーでは必ずと言っていいほどアタックが彼女に来る。彼女が主からの解放を頂き、清められてこのミニストリーに参加できるようにと祈る。)

その中で北斗チャペルの長縄より子姉、北広島ペンテコステ教会の内山桂子姉、友人の萱森真理さんが賛助出演してくださる。カレブのミニストリーをはじめた時にこのミニストリーが超教はであることを宣言したが、主の御心であったのだと思う。

練習のスケジュールが進む中で少し自分の思いとは違う反応に歯がゆく、不満の思いが来た。それは自己中心だったにも関わらず、当たり前のように思った結果であった。主が下さったミニストリーを自分のものにしそうになっていた。この事を主に気づかされ、悔い改めた。

心から共に働いてくださる兄弟姉妹を思い、祈った。

そんな時に久しぶりにはっきりとしたしかもドラマティックな夢を主が見せてくださった。

「気がつくと私はイスラエルの城壁の中で琴を弾いていた。白い着物を着て立って弾いていた。弾いているのは一人だが、周りに会衆がいるのがわかる。また共に楽器を演奏しているものもいると感じている。曲はイスラエルの曲。演奏が終わったところで目を上げると会衆の中にもとの琴パートナーがいた。彼女とは1年以上会わず、彼女に対するうわさを聞いたが以前主が見せてくださった夢のように頑なで許しがないこと。そのことで私自身は祈るしかないと思ったことがあるだけであった。

その彼女がやはり固い表情でこちらの演奏を見つめていた。私は咄嗟に彼女に駆け寄って抱きしめた。彼女は最初いやそうにしていたが、彼女の目から涙がこぼれた。ここでこの夢は終わり。私はまだ目覚めないが。今度は場所が変わっている。

私は黒いコートを着てサングラスをかけてある家の前で人を待っている。その家はとてもりっぱな家だが、ここはトムヘス師の家であることが分かっている。中から出てきたのはやはりトムへス師であった。彼と笑顔で再会の挨拶を交わす。私は彼に琴の準備はできているかとたずね、かれは「もちろん!」と答える。そして彼の誘導する場所に行くとそこにあったのは十七弦であった。私は彼に調弦のしかたが変よ。でも大丈夫すぐに直せるからなどと話している。本当に信頼しあった神の仲間という関係に心が和んでいるのを感じる。

彼との会話が全て英語である事から主は私に新しい言語を与えてくださるのか?と目覚めてから思う。

最後に私はトムに「すぐにチームが私を追いかけてくるわ」と話し、そこで夢が終わった。

この夢は大きな励ましであった。

チームでヘス師の元に行く。琴を門の中で演奏する。(多分オリーブ山で)もとのパートナーとの和解。この3つはポイントだと思っている、この他にも主がこの夢を通して私に知らせたい事があるのなら教えてくださいますように。

主からイスラエルに住みなさいと言われたのは2007年のことだが、今回イスラエルに行っても本当に住むという確信がなかった。この夢を見ても私はまだ訪問者である。確かにイスラエルにまた行ってオリーブ山で琴を弾くのだと思う。しかも今度はチームと共に。

それがいつのことでだれと行くのかは全くわからない。夢の中にはチームがいるのはわかるけれど顔が見えなかった。

はっきりと顔がわかったのは私とトム、それに元のパートナーだけであった。