特 集

原発から40キロ圏内で活動中

グローバルミッションセンター

東北への玄関口とも言える福島県いわき市で、地元に密着したボランティア・ミッションを続けている教会がある。平キリスト福音教会(森章牧使)。放射能の被害を恐れて人々が県外へと脱出する中、あえて地元に留まり、被災者の援助と同時に地域の変革も目指している。同教会に通う五十嵐義隆氏(ラブレボリューション代表)がレポートする。


あっ、地震が来る!

3月11日に発生した東日本大震災。私はこの時、リバイバル・ジャパン3月20号の裏表紙に掲載させて頂いた「いわき乳食販売梶vの事務所で仕事をしていた。その時、いつもとは違う着信音が事務員の携帯から流れて来た。「あっ、地震が来る!」その声の数秒後、強い横揺れに襲われ、それは数分間続いた。

福島県いわき市で震度6強の地震。事務所のものが倒れたり、コンピューターが机から落ちたりしたが、幸い仕事に支障を来す被害や倒壊はなく、冷蔵庫の在庫もほぼすべて守られた。

私が通っている平キリスト福音教会も、会堂に多少のヒビが入り、食器棚が倒れて食器類は割れたものの、ほとんど被害はなかった。都市ガスは止まったが、水と電気は供給されていて、教会の独身者たちや家族が集まり、回復を待つ生活を一緒に始めた。

私は、会社の経営にも携わっているので、物流が途絶えた後の営業展開を考え、取引先の安否を確認することになった。いわき乳食販売の取引先は福島県相馬市から茨城県日立市までと広範囲で、いくつかの取引先が沿岸沿いにあり、またそこには多くの顧客の方々がいた。

さらにそれらの地域は福島原子力発電所にも近く、地震、津波のみならず、放射線への恐れで住民は県外に避難し、取引先の多くが営業どころか、再開の目処も立たない状況に陥った。また、海沿いの取引先が大きな被害を受けたことも知った。

当社社員の1人は、いわき市の江名という地区に家があり、津波で家が流され、お父さんが亡くなった。彼は今、会社で寝泊まりしている。もう1人は、福島第一原発に近い楢葉町(福島第二原発がある)に住んでいたため、すぐに避難生活に入り、いわき、会津と避難所を移動した。

いわき市全体としては、北は久之浜から勿来までの海岸沿いが津波の被害を受けた。地震により、局地的に水道、ガス、電気が止まった。復旧作業は今も続いている。地震で倒壊した家も50軒以上ある。JR常磐線も大きな被害を受けて不通になり、高速バスも止まった。高速道路も通行できなくなった。病院も介護施設も大変困った状況に陥っていた。町全体が機能しなくなっていたのだ。


教会がボランティアの拠点に

私たちは事態の大きさを把握し、さあ、今は通常の仕事ではなく、災害救援活動に時間を割かなければならないと認識した。市民に対する災害救援、人道支援へと心は固まった。支援センターは、駐車場が広く、3階建ての平キリスト福音教会と決まった。同教会はグローバルミッションセンターという宣教部門を持っていて、そこがボランティアの活動拠点、また被災者の避難先となって行った。

私たちはすぐに、いわき市の災害対策本部に足を運び、市内の状況を探った。しかし、市役所は混乱していた。これまで、いわき市というのは天災がない土地として有名であり、これほどの災害に対する経験も対策も持っていなかったのだ。結果、被災状況に市の対策が追いつかず、大きなギャップが生まれていた。また、報道される内容と実態はかけ離れていた。

そこでまず、すぐに出来る事を考えた。牛乳など会社の在庫100万円分を救援物資として提供し、困っている方に配ることにした。会社には7台のトラックがある。これを救援物資の配送に使った。

震災の翌日(12日)に各牛乳メーカーに電話をすると、どこの工場も被害を受け、再開の見込みが立っていなかった。その日に到着する予定の商品も郡山市で止まり、いわき市全体の物流がストップしていた。そしてこの日、福島第一原発の1号機で水素爆発が起こり、事態は一気に緊迫したものとなった。

さらに14日には3号機の建屋が爆発し、前回とは違う灰褐色の煙が立ち上った。この時点で、いわきでは核燃料が爆発するのではないかとの恐れが拡がり、市民が次々に県外へと避難を始めた。

放射能への恐怖は、3月15日が最も高まっていたように思う。ここで、いわき市に大きな混乱が生じた。国は避難勧告を出したが、いわき市長が条例をそのまま適用して屋内退避勧告を出してしまった。市外・県外に避難しようとした住民たちは、ガソリンを入れようにもスタンドは屋内退避勧告によって営業を中止、あちこちで動こうにも動けない状況が生まれた。

ガソリンが買えない、お店も開いていない、在庫もない。まさにゴーストタウンの様相を帯び始めたいわき市の姿だった。当時、国から運び込まれる救援物資を市民が受け取る場所も決められていなかった。

放射能を恐れて人は出て行くが、助ける人は入って来ない。物は減るばかり。人々の不安は高まる。地元のNPOやNGOも避難するケースが多く、民生委員までがかなりの数、避難して出て行っていた。だから、孤立した家の現状を把握することができていなかった。


今はただ仕えること

しかし、私たちのグローバルミッションセンターがある平地区は、屋内退避も解除され、放射線値も問題なかったので、救援活動の拠点として力強く働くことができた。

救援活動も復旧活動も非常に遅れた状態だからこそ、留まった私たちに託されたものは大きかった。神がその機会をくださったのだと私は実感していた。

そして、全国のクリスチャンが、東北、そしていわきのために立ち上がってくれた。5日目には千葉県のおゆみ野キリスト教会(ダニエル・アイバーソン牧師)がトラックに救援物資や燃料を満載して届けてくれた。

以降、毎日のように救援物資がトラックで運び込まれ、被災者たちに届けられた。燃料も、市内では手に入らなかったが、県外の教会が地元などで並んで軽油を確保し、運び入れてくれた。それによってトラックを自由に動かすことができた。

さらに、病院やケア施設などから、私たちのセンターに対してヘルプの電話がかかってきた。食料がない、大人用のオムツがない、水がない、できれば提供して欲しいと。あらゆる場所であらゆるものが不足していた。グローバルミッションセンターの名前は、いわき市の中で次第に広まっていった。

また私自身、スマトラ島沖地震、ハリケーン・カトリーナ、能登半島地震、新潟県中越地震などで計3年ほど救援活動をした経験があったので、そのことを市役所に伝え、「今こそ民間と役所と企業が連携を取るときです」と話した。

実際、私たちが避難所や被災地で聞き出した市民の声を災害対策本部が取り上げ、それがさらに部長会議に上げられて実行されるケースが何度もあった。私たちは援助活動をしつつ、連絡役にもなったのだ。

象徴的な出来事があった。全国から集まる救援物資は、いわき市の平競輪場に集められているのだが、ある日、教会のスタッフがそこに足を運ぶと、物資を運んで来たドライバーが激しく怒っていた。自分たちが運んだ物資の賞味期限が切れてそのままになっていたのだ。彼は30分ほど怒っていたという。

教会のスタッフは、集められた物資が有効に用いられていないこと、避難所だけに配られて、家は守られたが実際の生活に困っている人々がなおざりにされていることを知り、心を動かされた。

私たちはすぐに、災害対策本部に足を運び、ボランティアの窓口にもなっている市民協働部の部長に話しを持ちかけ、「何とかしないと、いわき市で餓死者が出ますよ」と訴えた。彼はすぐに市長にかけあってくれ、その夜には物資を公民館や集会所に分け、そこから避難所以外で困っている人々に配給されることになった。

また、災害時には需要と供給のタイムラグが生じる。これが足りない、とメディアが情報を流しても、数日後にはそれが満たされてむしろ余ってしまうのだ。私たちは物資を避難所に運びながら、人々のニーズが徐々に変わっていくのが分かった。避難者たちに、お風呂に入りたい、温かいものが食べたいなどのニーズが生まれてきていた。

私たちは、お風呂に入れてあげることはできないが、せめてリフレッシュをして欲しいと考えたところ、「足湯」というアイデアが浮かんできた。そこでメルマガで呼びかけると、ある企業が2トンの薪を提供してくださることになった。さっそく、かまどや大鍋を購入して避難所でお湯を沸かし、被災者の方々の足を洗わせてもらった。

最初に足湯の場所を提供してくださったのは湯本第二中学校の校長先生。森章牧使と10年以上の付き合いがある方だ。イエスの愛が私たちを通して彼らに伝わるように、祈りながら奉仕をさせていただいた。この足湯は、毎日のように行われている。

現在、グローバルミッションセンターには日本各地から、また世界各国からクリスチャンが集まり、教会で寝泊まりしながらボランティアを続けている。主な働きは、物資の提供、安否確認、炊き出し、足湯ミニストリー、音楽ミニストリー、子供たちとの遊び、瓦礫の撤去などだ。

気をつけていることは、ボランティアも宣教も、こちらのペースで行うのではなくて、相手の立場に寄り添って、まずは「隣人」になるところから始めるということ。森牧使は、「弱みにつけ込む宣教はやめよう。今はただ、愛をもって仕えさせていただこう。」と語っている。役所の方々は今、私たちのことを「グローバルさん」と親しみを込めて呼んでくださる。


NPO設立に向けて

そして、私たちがいわきに留まる理由は二つある。一つは、現状の中で取り残されている人々への物資の配給、もう一つは、原発が最悪の状態になったときに人々を安全な地帯に搬送する働きだ。どちらにしても、私たち教会が為すべき働きがある。

グローバルミッセヨンセンターに集まった地元のクリスチャンたちは、信仰に立ち、祈りの中で生活を送った。その中には2人のアメリカ人クリスチャンがいた。米国政府が80q圏内からの避難指示を出した時にも、彼らは留まり、いわきを助け続けることを選択した。

また震災から4、5日が経った頃、教会で私の目の前で休んでいた若者に会社の上司から電話がかかって来た。原発で放水作業する人が足りないとのこと。「一般でも募集をかけているみたいだから、お前行かないか?」という内容だった。その報酬は莫大な金額だった。彼はいくらお金がもらえても命には代えられないと、その誘いを断った。

その後、大気中の放射線量が落ち着き、風評も冷静に判断し始めた住民たちが、次第に市内に戻り始めた。しかし、多くの人が失業し、少なからぬ会社が倒産や閉鎖状況に追い込まれている。特に漁業、農業、酪農を営む方々が本当に苦しんでいる。須賀川市の農家の方が自殺したニュースには心が痛んだ。

そこで私たちは、救援活動の次の復興活動について祈り始めた。地元で雇用を生み出し、新しい方法と価値観でいわきを再興できないかということだ。そんなとき、以前に訪問したスマトラ沖地震の被災者の声が思い起こされた。「パンはもう十分です。釣り竿や船が必要なんです。自分たちで生活を立て直さなければなりません。」

いわきも同じ状況。もっと言えば、現在進行形の原発の放射線の問題があり、同じ職業にどれくらいの人が戻れるのかを考えると、さらに深刻だ。そこで、建築業や社会福祉事業を興して雇用や町づくりができないかなどを教会のリーダーたちで話し合い、祈り始めた。

実は、グローバルミッションセンターを運営する平キリスト福音教会の森章牧使は、日本のトランスリンクジャパンの世話役でもある。トランスリンクとは、フィジーやケニアなど、「トランスフォーメーション」(霊的な神の国が実際の地域社会や国に影響を及ぼし、変革をもたらすこと)が起きた国々のネットワーク。この教会も、いわきの変革のため、日本の変革のため、同じ祈りを捧げて来た。

また今回、世界中から「とりなしの心」で来てくれたクリスチャンが大勢いる。イスラエルからはリバイブ・イスラエルの宣教師、アメリカからIHOP(国際祈りの家)でミニストリーをする姉妹も来られた。ビンヤード教会も世界規模でグローバルミッションセンターを支援したいと申し出てくださり、いわきから世界にとりなしが広がっている。日本各地からも、ただ祈りのためにいわきに来てくださる方も多い。

今や原発事故のおかげで世界的に有名になった「FUKUSHIMA」、第二のチェルノブイリになると恐れられている中で、未だいわき市の放射線量は人体に影響を及ぼすような範囲ではない。これは世界で捧げられている祈りの結果だと信じている。私が配信するメルマガも、ヘブライ語、英語、韓国語、中国語、スペイン語などに翻訳され、配信されている。

これからの日本は、戦後に実現した経済大国に戻ることではなく、愛で満ちる慎みある国を目指さなければならないと思う。それは、長野県知事を支える後援会の人達(未信者)も口にしていた。「復旧してはいけない。復興であり、新しい価値観のコミュニティ作りだろう」と。

新しいコミュニティづくり。私は、利益を優先しない姿勢を示すためにもNPO法人を立ち上げる必要があると感じ、その設立に取りかかった。もうしばらくすればNPO法人グローバルミッションジャパンが立ち上がる。そしてそれまでの間も、森牧使が理事長を務めるNPO法人の枠内で活動を続けることができる。

どうかNPO法人グローバルミッションジャパンの設立ためお祈りください。費用が満たされ、人員が満たされ、復興事業において神の教会が先を行くことができますように。今回、私は日本の復興のために素直にお願いしたいと思います。どうか、捧げてください。助けてください。この日本がキリストの栄光で満たされますように。全ての栄光がイエス・キリストの御名に帰しますように。

献金口座

東邦銀行 平支店(店番号601)

普通:2414975

名義:Global Mission Japan 

代表 森章