日本の国旗について
以前から多くの海外のミニスターたちによって、日の昇る国という約束が神によって日本に与えられていると語られ続けていました。2006年にブラザーユンが来日したときにも、聖書に約束された日の昇る国とは日本のことであると語っていました。
マラキ4章2節3節のことばは日本が終末の混乱の時代に立ち上がり癒しをもたらし敵の仕業を踏みつけるために用いられると語っています。
ヘンリー・グルーバー師は「いやしの翼を持つ義の太陽の旗が日本に与えられる。」と語っています。
トム・ヘス師もまた、イザヤ書59章19節を良く引用して日本が日の昇る国であることを強調されています。彼は20節のことばと合わせて日本が霊的に立ち上がる時にそれはユダヤ人の民族的な救いに関わってくると語っています。
外国の方々にしてみれば、日本の国旗のデザインからして太陽なのだから、日本が日の昇る国であるというのは当然じゃないかと思います。
さて、しかしながら、そしてクリスチャンの中にも日の丸に反対している人が少なくありません。その動機は良心に基づいた良いものだと思います。けれども動機が良くてもそれが正しいとは限りません。それによって失われてしまうものがあるからです。
しかし、それは変な話です日本人のクリスチャンは世界中に出かけていって謝罪と和解の行動をしているのに、それでも赦されないというのであるならそれは、それは赦しを求めても赦されないという別の福音を語っていることになります。
また日本に対する非難のかなりの多くは捏造や誇張もあるのでそれらの検証も必要です。
国旗というものは基本的に変わることの無いものです。また、人という存在も固有のものです。キリストを信じたからといって別の人になるわけではありません。もちろん心は癒され、スピリットは新たにされます。けれども過去は変えることはできませんし、同じ肉体の中にとどまり続けます。
贖いの概念とは、正確に言えばイエスキリストを信じれば過去の罪がなくなるのではなく罪が覆われるのです。
(ローマ4:7-8) 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」
私たちの過去の人生を変えることはできませんし、国の歴史も変えることはできません。(もっとも歴史観を再検証することはできます。)たとえ過去に犯したことがどれだけひどいことであっても、私達の罪はキリストの血潮によって覆われることができるのです。
私達は個人として、また国家として罪が覆われたものとして過去にとらわれず前進していくのです。
でもちょっと考えてください。ヤクザの刺青は暴力、脅しといった罪の象徴そのものです。にもかかわらず、どうしてそれを堂々と見せびらかすことが神の栄光となるのでしょうか。
それか主が彼らの人生をまったく新しいものとしてくださったからです。人々は刺青を賛美したわけではありません。神の御業を賛美したのです。彼らの過去の罪が重ければ重いほど彼らが救われた喜びは大きく、罪の象徴の刺青が神の栄光を表すのです。
百歩譲って戦時中の日本に対する訴えが本当であったとしても日の丸のデザインはヤクザの刺青よりは聖い(?)と思います。ですから私達は、国家に対しても新しくされたものの象徴として国旗を掲げるのです。
日本の国旗のデザインが太陽神、天の女王すなわち日本においてはアマテラスと関係があると考え、それは悪いものであるととらえるのです。
ところで、みなさんはメキシコの国旗をご存知でしょうか?その図柄にはヘビをつかむ力強いワシの姿が描かれています。ある意味、すごく聖書的な図柄です。
そしてこの図柄のごとく、神はメキシコを力強く用いています。メキシコはアメリカに近いこともあり経済的にも政治的にも力があり、クリスチャンの数も安定して増えています。賛美についても10年前まではメキシコで作られた曲がラテンアメリカの賛美を席巻していました。そして現在でもメキシコが他の国よりもリードしているのです。
現在ラテンアメリカ諸国の全域で歴史上最長といわれているリバイバルが続いていますが。リバイバルの進行速度という意味においてはメキシコはアルゼンチンなどに比べてラテンアメリカの中でも後発であったといえます。にもかかわらず、その初期の段階から、メキシコが賛美の分野で用いられていたということは驚きです。
伝承によりますと、アステカの神がサボテンの上でヘビを食べている鷲を見て、そこに街を作ったのがメキシコシティーの始まりでした。
国が国旗の図柄が預言するかのごとく力強い歩みをしているという事実がありながらも、それが異教的なものであると知らされるときに私たちはどのように反応すればよいのでしょうか?
ひとつの国家に対して神の計画と約束が与えられるとするならそれはいつからでしょうか?それを知るために個人一人一人に与えられている神の計画がいつからあるかを見てみましょう。
(エペソ1:4)神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
この聖書の言葉から、私たちひとりひとりに対する神の計画は「創造の御業の前」からあったことがわかります。個人に対する神の計画がそうであるなら、ひとつの国の上に神が持っている計画もそのとおりではないでしょうか。
「創造の御業の前」というのは、天と地が作られる以前であり、また被造物に過ぎないサタンや天の女王が作られる以前のことです。ですから、日本の国旗が象徴している「太陽」は天の女王ゆえに作られたものではなく、この世の基が置かれる前から日本の上にある神の計画を宣言しているのです。
メキシコ人は概して国旗を愛していますが、中には国旗のデザインがアステカの神話から来ている事ゆえに敬遠しているクリスチャンの一派も存在しています。
同様に霊的で良心的なクリスチャンの中にも日本の国旗は天の女王を現すのでそれは良くないと思っている人がすくなからずいますが、そういった悪いイメージは、日本に対する計画を混乱させるためにサタンによって後から付け足されたものなのにすぎません。
サタンはいつも先に良い物を自分のものにして、クリスチャンがそれを避けさせようにしてきました。
ですから私達は、サタンに奪われた日本に対する「日の昇る国」という約束を宣言するべく日本の国旗を積極的に用いるのです。
メキシコ国旗に描かれているワシは「ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)の予言鷲」と呼ばれており、ウィツィロポチトリはアステカの神話における太陽神です。つまり、日本とメキシコの上にある神の預言的宣言を妨げようとしたのがどちらも太陽神であることは興味深いことです。
日本とメキシコにはいろいろな類似性があり、時間あるときにそれをまた書きたいと思います。