牧師と言う肩書きについて「4種類の牧師」

牧師という言葉には4つの意味があります。ひとつは役職名であり、もうひとつは役割です。そして三つ目に賜物であり、そして五役者としての神からの任命です。

ある人は、この4つのすべての条件を備えて牧師をしていますが、全員がそうではありません。

牧師としての召命を受けていない人や、実質的には牧会をしていない牧師もいます。これは役職名(職業名)としての牧師です。

こう書くとニセ牧師の事を否定的な意味で書いているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。この肩書きによってブライダルミニストリーなどの特殊な働き、カウンセラー、ラジオ伝道者、教師、また使徒的働きをこなしているのです。

神から受けている召しは牧師ではありませんが、教会の代表者という意味で牧師と呼ばれている人がいます。教会の教職者の一般名が牧師だからです。


役割としての牧師は群れを導き牧会している人です。そしてほとんどの場合牧師と言う職業名を持っています。これはいわゆる牧師です。

牧師としての職業名を持ち、牧師としての役割を果たしています。しかし、賜物は持っていないし、五役者の牧師でもない人がいます。かくゆう私もその人たちの一人です。

この牧師の中にも牧師としての召しを持ってはいないけれど、暫定的な召しであったり、群れの必要に迫られ牧会している人がいます。

また、教職者であり、責任者であり牧師であるにもかかわらず、教団のシステム上伝道師という肩書きでミニストリーをしている人もいます。


三番目の牧師は賜物としての牧師です。

このことをわざわざ書いているのは、牧師としての役職名を持っていないけれど、その賜物を用いてミニストリーをしている人がいるからです。

私の教会でカウンセリングをしているのはこの賜物を持っている方たちです。


四番目の牧師は五役者の牧師としての召命を神から受けた人です。

すべての牧師がこの五役者の牧師ではありません。でも、それは悪いことではありません。的確な預言をする預言的油注ぎを持っていたとしてもそういった人のすべてが預言者ではないことと同じ理屈です。そういう牧師であっても他の賜物や他の五役者としての油注ぎによってうまく群れを導くことができます。

五役者の牧師は役職名ではありません。キリストから直接的に任命されている牧師ですから教団から追い出されたとしても「牧師」ですし、極端な話、群れを持たなくても牧師なのです。(


こういったことを理解していると、牧師と言う存在につまずくことは少なくなります。牧師という肩書きを持っているにもかかわらず信徒の世話をあまりしなかったり、教会の外に対する情熱が強すぎたり、伝道に熱心すぎて牧会をおろそかにしていることによってつまずく人がいますが、その方は「牧師」ではなかったのでしょう。

以前「雑誌ハーザー」に預言者としての召しを持っている牧師が一生懸命羊を世話しようとしてもどんどん傷ついて出て行ってしまうという状況が起こりました。彼は友人から「あなたの召しは預言者なのだから無理に誰かのようにやろうとするのではなく預言的に牧会すればいいんですよ。」というアドバイスを受けて、それを実行したところ教会がさらに成長したのです。


この記事を読んで、「牧師」という言葉に対してどうしてこんなに複雑な説明になるのか不思議に思われる方がいるかもしれません。でも、それもそのはずです。

実は、新約聖書に「牧師」という言葉は1度しか出てきません。その牧師とは五役者の牧師(エペソ4:11)だけです。

今日牧師と呼ばれている働きは聖書の中では「監督」や「長老」と呼ばれています。

監督が牧するものであることは(1ペテロ2:25)から理解できます。

長老が牧することについては(1ペテロ5:1〜2)に書かれています。

長老が監督であることについては(使徒20:17&20:28)に書かれています。


もちろん、とはいえ、現在の牧師=新約聖書の長老や監督という表現も正確ではありません。

なぜなら、当時の教会は教会の規模にかかわらずチームミニストリーが当たり前であって、「すべての責任と仕事を押し付けられたリーダー」という存在というのはなかったのですから比較できないのです。