神の真理の回復は、ちょうど戦いのための武器を一つ一つ与えていくようなもの

古い武器で戦うことが悪いことではありません。新しい武器が与えられたからといって古い武器が否定されるわけではありません。でも、だからと言って新しい武器が渡されているのに古い武器だけにしがみつくこともありません。私達は神が与えるものを受け取っていき、一つ一つ状況に応じて取り出し用いていくのです。

(マタイ13:52) そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

神が真理を回復させるときにすべての教会に一度に真理を示すわけではありません。一部に与え、そこから広がっていくようにされました。

周りの者がそれを見るときに「あれいいね〜」「調べてみたら聖書的だ」と言うことで広がっていくのです。しかし、その過程で周りの教会との差異が生まれ、それまでの伝統が覆され他の教会との違いを形成するのです。

たとえばここ数百年の歴史を見るなら「信仰による救い」「浸礼」「神癒」「聖霊のバプテスマ」「にぎやかな賛美礼拝」「信徒運動」「五役者」その他数え切れないほどの真理、神の武器が回復してきました。

これらは何も新しいものではなく新約聖書に書いていることです。「信仰による救い」が提唱されたときにプロテスタントが生まれました。「浸礼」が回復したときにバプテスト派が生まれました。

これらが生まれた時に彼らはその特異な信仰により周りとの差異を生んでしまいました。しかし、後に、その確かな歩みと聖書的根拠が認められるときに周りの他の教派もそれから学ぶようになりました。(もちろんすべてが受け入れたわけではありません。)

ですから、私達に必要なのは、違ったものに対する寛容さであり、新しい良いもを受け取りたいと言う飢え乾きなのです。