賛美ミニストリーは牧師などの監督職の覆いの下にあるべき

第一歴代誌25章1節〜7節を見るなら賛美チームが秩序だって構成されているのを見ます。

2節にアサフが賛美を導くものとして立てられています。その指揮下にさまざまな楽器を奏でる者、歌を歌うものが任命されました。アサフは今日の言い方をするなら賛美リーダーです。しかし、アサフが賛美の最高権威者ではありません。同じ2節に「王の指揮下で」と書いているように彼はその場における最高権威者の指揮の下にあったのです。

これを今日の言い方で言うなら、牧師などの集会の総責任者の権威の下に賛美リーダーが立てられていることを意味します。ですから賛美リーダーは自分勝手にミニストリーをするのではないことを知らねばなりません。

それと同時に牧師も賛美の時間に礼拝を導く責任を放棄してはいけません。


私の教会ではこのことを徹底しており。実際賛美の時間に95%の事柄は賛美リーダーの指揮にゆだねていますがしかし、ここぞというときに、牧師が賛美に介入します。

そして賛美リーダもそのことを喜んでいます。賛美リーダに責任と重荷を負わせていないのでプレッシャーを感じることはありません。また、高慢になることからも守られます。

今日見られる、一人の賛美リーダーが先頭に立って賛美を導くスタイルによって力強い「プレイズ&ワーシップ」と呼ばれる賛美スタイルが確立されましたが、同時に高慢になってしまったり、責任の重さがプレッシャーになってしまうことも数多く見られます。

私のメキシコの母教会は日曜日の集会では3000人を前に賛美リーダーが賛美を導きます。そのプレッシャーは相当たるもので、この10年の間に2人のメインの賛美リーダーが倒れてしまいました。

いずれにしても、いつも先頭に立ってミニストリーをしる必要はありませんが、牧師が賛美を含めて集会のプログラムのすべての場面を監督するべきなのです。