歴史はあらかじめ定まっていない

多くの人が勘違いしていることがあります。それは歴史がもう定まっていて、変えられないと思っていることです。このような考え方は「予定説」などに見られるように、救われる人はあらかじめ決まっているのだから「伝道しなくても良い」という間違った解釈の元となっています。

現在知っている世界のほかに他の世界はありません。けれども、歴史の要所要所で人の行動が違えばまったく違った歴史もありえたのです。


たとえば、アダムとエバが禁断の実を食べてそれから罪が人の中にはいってしまいました。それを見てある人は「神は彼らが罪を犯すのを知っていてわざとそれをさせた」と考えます。なぜなら「それがなければ今の世界がないから」です。

しかしそれは大きな間違いです。神は人が罪を犯すのを望んでいたわけではありませんし、それ以外の人類史がありえないわけではありません。

あの時に人が罪を犯さなければ、そのまま、増え広がり、命の実を食べて、永遠の命を得る歴史だってありえたのです。


神が警告を出すのは私達が進んでいる道を変えて欲しいからです。ヨナの説教で改心したニネベのことを思い出してください。

第1サムエル3章で神がエリに警告した時にエリは何をするべきだったのでしょうか。悔い改め、やるべきことをする、すなわち息子達を戒めるべきでした。

しかし、エリは何と言ったでしょうか

「主がみこころにかなうことをなさいますように。」といっただけでした。

なんということでしょうか。彼は神が与えたチャンスを間違った神学によって逃してしまったのです。

これは今日においても起こっていることです。黙示録に書いている記述に対して。「あーそれはもう知ってます。」「聖書に書いていることでしょう。」「そうなりますよ。」といって受け入れてしまっている人が多いのです。

そして「世の中が悪くなればなるほど人々が飢え乾き教会が成長する」と思っているのです。

ダッチシーツの「天と地を揺るがす祈り」という本にはこのようなことが書いています。「神はこの地上において起こること(悲劇)に対して責任を負っていない。」と。

人類の行き先はとりなし手にゆだねられているのです。たとえサタンの策略を止めることはできなくても遅らすことはできます。

祈りによって。