もっと神に近づく

神に近づくというのは、最終的にはそれはモーセが「生きていることはできない」といわれたように、またエノクが地上からとられ天に引き上げられたように、究極的に言うなら、肉体と一緒では近づけないほどの近い神との関係というものがあるのです。

まあ、そこまで高いレベルの近づき方は別にして、私たちは賛美や祈りによって、また御言葉を通じて神に近づくことができます。しかし多くの人が、ある程度近づいたことによって満足してしまっています。

賛美の中で主の臨在を感じるに当たって、それは至聖所に入ったと表現します。誰かが体験しているすばらしい経験に対してけちをつけるつもりはありませんが、でも事実として、臨在を感じて、それが至聖所だと感じたとしても、それは至聖所ではなく、大庭である可能性があるのです。


幕屋や神殿の構造を思い浮かべてください。

幕屋のもっとも深い部分は至聖所と呼ばれる神が臨在される中心の場所ですが、そこに至るまでには聖所があり、その前には大庭があるのです。

大庭といっても、それはこの地上の生活に比べたらまさに天国のような場所でしょう。事実詩篇の作者もその大庭のすばらしさを以下のように表現しています。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。(詩篇84:2)

ですから、大庭がすばらしい場所であることは確かですが、そのレベルだけで満足してしまうなら、至聖所に入ることを求めなくなってしまうことが起こってしまうのです。

私たちは、ある程度賛美の中で臨在を感じ、そこに浸ることによって満足してしまうのではなく、更なるものを求めるべきなのです。

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