滅びの警告をキャッチすることは神の祝福の約束を受け取ることに勝る

終末の時代におけるとりなし手の資質

アブラハムはどのようにして滅び行くソドム・ゴモラに対する祈り手となったのでしょうか?

創世記18章においてアブラハムは神から遣わされた御使いたち(主)をもてなした結果「来年の今頃男の子ができている」という約束を受け取りました。今の日本に当てはめて考えるなら、いよいよ日本にリバイバルを与えるということでしょうか?

すばらしい話ですね。

主をもてなすとは、素晴らしい賛美礼拝と祈りのときを持ったということを表しているとするなら、素晴らしい賛美と祈りのリバイバル集会の中で、リバイバルの対する約束を受け取ったと解釈することができます。

しかし、このアブラハムに与えられた約束がどれだけすばらしいものであったとしても、それはすでに語られていたことです。時が来れば成就する出来事でした。この御使い達が遣わされた本来の目的はいったい何だったのでしょうか。

御使いたちの本来のミッションはソドムとゴモラを視察して裁きをもたらすことだったのです。そのついでにアブラハムのところに立ち寄っただけでした。

それでも、結果的にはアブラハムはソドムとゴモラに対する滅びの警告を受け取り、それらに対するとりなし手となりました。それがどのようにしてなされたのかを学ぶことは、今日私達が世の終わりに対するとりなし手となっていくために重要なことです。


アブラハムは約束を受け取った後、もうそれ以上主を求めなかったわけではありません。彼は、御使いたちを見送ったのです。見送りといってもただ、玄関口で見送ったのではありません。いっしょにかなりの距離をついていって歩いていったのです。主から離れたくなかったのです。

この、アブラハムの献身と主への愛、ひたすら主だけを求める姿勢は主の心をとかしました。それゆえ主は、どうしたらよいかと考え始められたのです。

そして思わずこのようなことばを漏らしました。

「アブラハムに隠しておくべきだろうか」

そのような経緯の後主はアブラハムにソドムとゴモラの滅亡について語り始めたのです。

ですから、滅びの警告を受け取り、真のとりなし手となる為には、さらに深い礼拝によってく主を知る必要があることをこれは表しています。

クリスチャンが「祝福の約束を受け取る」レベルで終えてしまい、それ以上主を求めていないなら、この世の現状がどのようなものかを知ることができないのです。

それゆえ「全世界は悪いものの支配下にある」(1ヨハネ5:19)の御言葉が理解できないのです。


滅びの警告をバランスよく受け取ることは誰もがキャッチできるものではありません。

もちろん、ただ、不安をあおるだけでしたら、これまで登場したさまざまなカルト宗教でもできることです。

けれども、SIHOPが目指しているのは滅びの警告を与えるだけではありません。どんどん悪くなっていく状況の中から、神の計画を取り出し、希望を与え、宣言し、実現に至らせることです。

キリストがすべての敵を打ち負かし、勝利者となることは周知の事実です。しかし、神はわれわれをその働きの傍観者ではなく、中心へと招き入れてくださっているのです。

ですから、世の終わりに対して、見張り、とりなしていくものたちは、ただ、リバイバルの手ごたえを感じて喜ぶだけでなく、神と深い交わりのときを持つ必要があるのです。

 

教えのindexへ戻る