神に持ちいられたからといって正しいとは限らない

黙示録3章7節にあるように、主が扉を開かれるならそれはなされます。

しかし、だからといって、その人のやり方や動機が正しいゆえにそれが実現するわけではありません。

アッシリヤはイザヤ書10章5節にあるように神の怒りの杖として神を敬わない国々を罰するために用いられ、その延長線上においてイスラエルも罰せられました。

ではアッシリヤは正しかったのでしょうか?

そうではありません。

それはただ、神の裁きを実現するために用いられただけであって、彼が正しいわけではなかったのです。

事実、イザヤ書10章12節にあるように、その役割を果たした後、彼もまた裁かれたのです。

ですから、私たちは「神に用いられている」からといって高ぶるのではなく謙虚な気持ちでいましょう。