サタンに栄光を与えてはならない

クリスチャンは時々霊的に聞こえる言葉を用いて結果的にサタンに栄光を与えてしまう場合があります。

雨が降ったために計画していた野外伝道がだめになった。

病気になって日曜日に教会にいけなかった。

このような場合、ある人は「サタンが妨げた」といいます。それはまるで、サタンが自由に天候をコントロールし、人を病気にさせる力があることを認め彼の力を評価しているかのようです。

もちろん、私もサタンにある種の力があることを知っていますし、人を病気にすることができることを知っています。

けれどもだからといって、ことが起こるたびにいちいちサタンの栄光を宣言するようなことはいたしません。

神が十の災害によってエジプトを討ったときにパロはどのような態度をとったでしょうか?

カエルが大発生しエジプトを悩ませていたときに、パロはモーセにカエルを取り除くように言いました。モーセはパロに「いつなくなるように祈ればいいのですか?」と聞いたときにパロは「明日」と答えました。

本当は今すぐにでもやってほしかったのにパロは見栄を張って「明日」と言ったのです。

これはサタンが持つ頑固さの一面をあらわしたものですが、同じ意味としてではありませんが、私たちは敵の力を評価しない頑固さも必要です。


これは敵の力に対して無知であってもよいという意味ではありません。私たちは敵の策略やその力を十分知っている必要があります。

主の祈りの中でも、「悪からお救いください」と祈るように、神に守りをもとめ、また敵の力を縛りとがめていく必要があります。


いずれにしても、何かが起こるたびにいちいちサタンの力を評価しすぎてサタンを喜ばすようなことがあってはならないのです。