人に与えられた自由さについての教え (13/03/06)

アダムに与えられた自由とはどれほどのものだったのでしょうか。彼は物事を決定するときに、自分の分を超えたことをしてしまうのではないかと心配ではなかったのでしょうか。

(創世記2:19)神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

これは、どういう意味でしょうか。

アダムは自由に動物に名前をつける権威が与えられていました。彼はいちいち神様に「この耳の長い生き物の名前はウサギにしていいでしょうか?」などとお伺いを立てていたわけではありません。それどころか、神様はアダムがどういった名前をつけるのかを楽しみに見ていたのです。

ただ見ていただけではありません。もっと早く見たかったので神ご自身が生き物をアダムの前に連れてきたのです。


事実、聖書には(ピリピ2:13)に「我々の意思を通じて神が事行わせてくださると書いているのです。


このことを知るなら、現在の我々の行動にも思った以上に自由が与えられていることがわかります。

まず最初に押さえておきたい点は、「人の運命は決まっていない」ということです。こういうことを言うと奇妙に聞こえるかもしれません。なぜなら聖書によると、神は全知全能で我々の行く末を知っておられるからです。

しかし、私は言いたいです。我々の運命が決まっていて、それを神が知っておられるとするなら、まあ、それは確かにすごい千里眼ですが、「決まっているものを知っている」だけではなく、「人が何を選択するかはあらかじめ決まっていないにもかかわらず、順列組み合わせによって何十億通りもの無限にある選択支を全て知っておられる」とすれば、それこそ全知全能の神ではないでしょうか?


私がこのことを書いているのは、みなさんが自由奔放な生き方をするためではありません。

ピリピ書に書かれた、「我々の意思を通じて神が事行わせてくださる」という言葉は、その前の節(2:12)にある「神を恐れおののく心」があってはじめて理解できるのです。


神はわれわれをロボットとして作ったわけではありません。

自分の意志や願いを通じて人の歴史が動かされるようにされました。だからこそ神は私達の願い、意志が神の御心とひとつになることを願っているのです。

第二歴代誌16章9節)にあるようにそのような人に御力を顕して下さるのです。


ですから、私達は、失敗を恐れて、あるいは御心から外れることを恐れて縮こまるる必要はありません。そのような安心感を持った前提から始まり、

最高の主の御心のど真ん中を歩むことができるように、主を求め、主から聞き行動していくのです。