食物を絶つ行為そものが主の臨在をもたらす  (13/05/17)

どうして私は断食をして、断食を他の人に勧めているのか?それはそれによってでなければ体験できない深い主の臨在と愛があるからです。

もちろん、これは私の個人的な経験に基づいた発言であって、神の計画のすべてではありません。

また、ひとつの良い体験や教えが、他の良いものを妨げてしまう場合もあります。 SIHOPが導いている断食週についていうなら、「連鎖して断食することに比重が置かれているが、連鎖して祈るという点はあまりオーガナイズされていない。」という点かもしれません。

もちろん、断食によって圧倒的な愛と臨在の中を生きることができるのであるなら、とりなしの教え(3)の「神との親しい交わりはとりなしの基礎」(4分25秒付近より)で語っているように「とりなしの土台は神との親しい関係であるが故に」、語っている言葉に全然矛盾はなく、それほど問題を感じてはいないのですが・・・


いずれにしても、そのように、断食をしているという行為そのものが神の臨在と愛をもたらすものであるということを私は体験的に理解しています。

何故、そうなるのか? うまくは説明できませんが二つの点を上げることができると思います。

1)腹から聖霊が流れ出る

ヨハネ7章38節には「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-39)と書いてあるように、腹部と霊の働きには関連があるようです。

つまり、消化器官の活動が鈍くなると霊的な活動が活発になるということです。


2) 断食は内なる力で生きることの預言的行為

人間の体は生きていく上で栄養分を必要としていますが、その摂取の方法には大きく分けて2つあります。ひとつは外から取り入れる事すなわち食事を取ることであり、もうひとつは、内側に貯めてあったエネルギーを用いる事すなわち脂肪分から取ることです。

実はこの脂肪からカロリーを取る事は身体的な事柄だけでなく、預言的な行動として霊的にも意味があることなのです。

すなわち内なるカロリーである脂肪分で生きることは、内なる力である聖霊の力によって生きることの預言的行動なのです。それゆえ、断食をするときに、聖霊に満たされるのです。

エペソ3章16節〜19節)にあるように、断食により内なる人が強められるなら、「キリストの奥義のその広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができる。」のです。


ですから、私が勧めているのは数日の断食です。なぜなら、体のシステムがカロリーを外から取る事から内から取る事に切り替わるのに、2日ほど必要だからです。多くの人がいきなり断食をして、苦しいのでやめてしまいます。私だって、いきなり水だけの断食だったらかなり苦しいのでやりたくありません。

ですから、完全にカロリーの摂取を絶つ必要はありません。日常生活を続けながら断食する人がほとんどでしょうから、自分にどれぐらい最低限のカロリーが必要かを見計らっていく必要があります。

したがって、断食の初日はヨーグルトをたくさん食べながらの断食をして徐々に減らしていけば良いと思います。多分普通の人なら4日目にはほぼ水だけで断食が可能だと思います。

厳密にうなら、食事を減らしている期間は「予備断食」といいますが、私が重要視しているのは「正式な断食をする」ことではなく、預言的行動を通じて神の愛と臨在を体験するということなので、敷居を下げてこう書かせていただいています。

食べてもいいといっても朝、昼食べないで、夜は普通に食べる数日間の断食(世俗イスラムのラマダーン式)はあまりお勧めしません。それは先に書いた体のシステムが切り替わる暇が無いので預言的行動としての意味が薄れるからです。

もちろん、どのような断食であっても神の前には尊いものなので、自分にあった方法を見つけると良いと思います。


ですから、私としては、自分のことをもっとも断食に不向きな体質であると感じていますが。定期的にそれを行っているのはそれによってすばらしい体験ができるからです。そして、できれば多くの人に知ってほしいのです。