謝罪と赦し(14/06/03)
自分の過ちを認めて謝罪すること、また相手を赦すことには非常に大きな霊的な力があります。
しかし、それがいったいどういうものかを知らないがために、この状況をいっぺんさせる力を持っている神に与えられた武器を使うことができないでいる人がいます。
(1)赦しは決心です。
聖書には「決心」の大切さについて語っている3つの分野があります。それは「愛すること」「赦すこと」「救いを受け入れること」です。
これらは感情の問題ではありません。自分の力ではそれを達成できないかもしれませんが、それをするときに神がその残りのできない分を満たしてくださるのです。
(2)謝罪は全責任を認めることではない。
この見出しはちょと誤解される恐れがあるかもしれません。自分の責任をあいまいにして「相手も悪かった」などと思っていては謝罪にならないからです。
ただ、バランスをもって聞いていただきたいことは、自分の非を認めたからと言って、相手に全面降伏しなければならないわけではないということです。
たとえば、交差点の出会いがしらの交通事故で車同士がぶつかったときに、過失割合が幾つなのか考えなければなりません。通常、動いている車同士の事故でどちらかが一方的に悪いということはありえないからです。
ところが、片方の人がパニックになって、「私が悪いんです。全面的に責任をとります」といったらどうなるでしょうか?その人は全責任をとらなければならないのでしょうか。そうではありません。その方が全責任をとるというのは、自分に与えられた責任の中で全責任をとるという意味です。つまり過失4割なら、4割のすべてを責任取るということです。
ですから、同様に、自分の非を認めて謝罪するときに、全面降伏ではありません。
ただし、その残りの相手の責任の分を相手に押し付けてもいけません。それは神様が背負ってくださることです。
相手を赦したからといって、相手の悪がなかったものになったわけではありません。
今回の記事はちょと人間的なものになってしまったかもしれませんが、多くの人が赦しや謝罪ができないで苦しんでいるのでこのことを書きました。
ただ、知ってほしいことは、それらのすべての心の葛藤の上にあって神が私たちに何をしてくださったことを知ることです。
(マタイ18:21-35)によると、主が私たちにしてくださったことは、自分の命をもっても絶対に返せない負債を支払ってくださったことです。
ですから、大切なのは主を見上げることです。そして主に全面降伏して、自分の握っているものを手放していきましょう。