ユダヤ人に冷淡だったアメリカ(悲劇のセントルイス号の航海

当時高まっていたホロコーストの危険を避けるために1939年5月、937人の乗客(大半がユダヤ人)を乗せたセントルイス号キューバに向かってドイツのハンブルクを出航しました。

乗客の大半は、最終的には米国に移住することを予定しており、入国許可の順番待ちリストに載っており、また、キューバへの入国を認める上陸許可証を全乗客が保有していましたが、セントルイス号がハバナ港に到着すると、キューバの大統領は受け入れを拒否しました。

その後船はアメリカに向かいましたが、(彼らはヨーロッパに戻されるなら殺される危険があることをアメリカは知りながらも)上陸を許可されることなく、最終的にヨーロッパに戻りました。

ベルギー、オランダ、英国、フランスの各国が数を制限して乗客の入国を許可しましたが、それから数か月も経たないうちに、西欧はドイツの侵攻を受けます。ベルギー、オランダ、およびフランスで下船した数百人の乗客は、やがてナチスが進める「最終的解決」の犠牲者となりました。